オークショット「人類の会話における詩の言葉」(24)具体的状況が忘れ去られた活動
彫塑(ちょうそ)での発明について言えば、かかる変化をもたらした、おそらく最も重要な情況は、芸術作品と認められる資格をそなえた作品が単にありあまるほど豊富に存在するようになったということであろう。王侯・貴族、教会、商人、市当局、組合などの宝庫にため込まれ、保管されたこれらは、その実践的な由来や製作の機会が知られなくなったり、忘れ去られてしまい、それがかつてもっていたかもしれない実用や意味合いすべてから切り離され、こうして、新しい文脈へと移し置かれることによって、観想的注視を喚起し得るものになったのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 286)
それが作られた具体的状況が忘れ去られてしまい、抽象的意味や価値だけが残された。皮肉にも、その忘却が観想的活動を可能にしたということである。
それはちょうど、古い時代に征服したローマ人たちがギリシアの寺院や彫刻によって、観想的歓びを喚起されることになったようなものである。というのは、彼らにとって、それらは何ら宗教的・記号的な意味合いはもたなかったからである。イコンや絨緞(じゅうたん)や偶像や建造物や日常用品が、それらをもともと使用するはずではない人の目で見られたり、あるいはそれらのはじめの文脈から移し替えられたりして、我々自身の時代での認知を受けることになるのは、これとまったく同様の情況である。(同)
それが作られた具体的状況を与(あずか)り知らぬ者たちだからこそ、観想的歓びを享受することが出来たのである。
詩や絵画の「主題」への注目とか、詩の中に行動への手引きを求めがちな我々の傾向とか、詩を知恵や娯楽ととり違えたり、詩の「心理学」に興味を示したり、虚構をそれ自体で受け入れにくく、それを記号的なもの、見せかけのもの、あるいは幻想などと解釈する憤向などであるが――それらは何であれ、詩が現われ認知されるはるか以前の時代から生き残っているものとして、あるいは、我々にとって歴史的に比較的新しく、今なお不完全にしか消化されていない経験に対する反動として、理解することができるのである。(同、pp. 286-287)
ともすれば我々は、詩や絵画の中に隠された「テーマ」を見出そうとしたり、詩の中に行動への手引きの暗示を読み取ろうとしがちである。詰まり、詩それ自体を楽しむのではなく、そこから何か実践的意味や価値を読み取ることが「知的活動」であるかのような誤解がそこに存在するということである。
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