オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(4)個人に切り込んだホッブズ
共通善の道徳は人間性の異なった解釈、あるいは(同じことだが)人間性の異なったイディオムの発生に源を持っている。人間は活動の独立した中心として認められる。しかしこの個性が他者の個性とではなく、そのような人間から成るものと解された「社会」の利益と衝突するときは、いつでもその個性を抑圧する行動が是認される。全員がただ1つの、共通の事業にたずさわっているのである。
ここではライオンと牡牛はそれぞれ区別される。しかし両者にはただ1つの法しかないだけではなく、両者にはただ1つの承認された状況の条件しかないのである。ライオンは牡牛と同様に藁(わら)を食べるだろう。人間の状況のこの承認された条件は「社会的善」、「万人の善」と呼ばれる。そして道徳はこの条件が達成され維持される技術である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 303-304)
社会が成熟するにつれて、人は「個人」として尊重される。が、個人の自由が拡大するにつれて、社会との軋轢(あつれき)も増す。この場合、道徳は、個人と社会の衝突を未然に防ぐための規範である。
一人のモラリストの著作を考察するにあたって最初に確かめるべきことは、彼が人間性についてどのように理解しているかである。そして我々はホッブズの中に、私が個性の道徳と呼んだ道徳的生のイディオムの探究にたずさわった著作家を見いだす。このことはまったく驚くまでもない。自分一人で諸価値や1つの人間観を発明するのは極めて無能なモラリストだけである。教訓も人間観も、彼は自分を取り巻く世界から取ってこなければならない。
そして17世紀の西欧に現われた人間性は、個性に対する感覚が抜きん出ているものだったから――自らの知的な、あるいは物質的な成功を目指す、独立した、進取の気性に富んだ人間と、自分自身の運命の責任を引き受ける個人としての人間の魂――、これはホッブズの同時代人にとってと同様、彼にとって道徳的反省の主題とならざるをえなかった。もしホッブズが(あるいは17、18世紀の他のいかなるモラリストにしても)共同体の絆の道徳か、共通善の道徳の探究を企てたとしたら、それは時代錯誤だったろう。(同、pp. 304-305)
ホッブズは、個人に切り込んだ。道徳を個人の次元で考察したのである。
ホッブズをその同時代人から分かつものは何か。それは彼が探究することを選んだ道徳的生のイディオムではなく、彼が個性に対する当時のその志向を解釈したまさにその仕方と、彼がそれに結びつけた、あるいはそこから導き出そうとした、道徳的行動のドクトリンである。(同、p. 304)
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