オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(15)ホッブズの論理破綻
Continual Successe in obtaining those things which a man from time to time desireth, that is to say, continual prospering, is that men call FELICITY; I mean the Felicity of this life. For there is no such thing as perpetual Tranquillity of mind, while we live here; because Life itself is but Motion, and can never be without Desire, nor without Feare, no more than without Sense. What kind of Felicity God hath ordained to them that devoutly honour him, a man shall no sooner know, than enjoy -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 1: CHAPTER VI.
(折に触れ望むものを手に入れることに成功し続けること、即ち繁栄し続けることは、至福と呼ばれるもの、詰まり、現世の至福である。というのは、私達がここで生きている間、永久的な心の平穏というようなものはないからである。生そのものは運動に過ぎず、欲望や恐怖がないことが有り得ないのは、感覚がないことが有り得ないのと同じである。敬虔(けいけん)に神を崇拝する人々に神がどのような種類の至福を按手(あんしゅ)されたのかが分かるや否や、人はそれを享受するのである)-- ホッブズ『リヴァイアサン』
次の2つのうちのいずれかなのである。(1)これは平凡な資質の者にとってふさわしい解決であり、その者は「人がその時々に欲求するものを獲得するのに成功すること」だけを欲し、つつましい仕方で、仲間からできる限り邪魔されず、助力を得て成功することを望み、この状況で生き続ける方を至福よりも重視する。あるいは、(2)ホッブズは人間の至福の定義の仕方において間違っていた。彼の定義によると、彼の理解したような人間がそれを達成することは本来的に不可能になってしまう。ホッブズは至福の条件をその達成の障害としてしまうという矛盾を犯したことになる。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 313-314)
敵を片付けて名誉を得る少数者ではなく、敵として片付けられる不名誉を被る多数者が平和を望むのだ。平和は、理性の要請ではなく、か弱き者たちの命乞いである。
The comparison of the life of man to a race, though it holdeth not in every point, yet it holdeth so well for this our purpose that we may thereby both see and remember almost all the passions before mentioned. But this race we must suppose to have no other goal, nor no other garland, but being foremost. … Continually to be out-gone is misery. Continually to out-go the next before is felicity. -- Thomas Hobbes, THE ELEMENTS OF LAW: PART1: CHAPTER 9. Of the Passions of the Mind: 21. A view of the passions represented in a race
(人間の生を競争に例えることは、あらゆる点で有効とは限らないけれども、我々は先述したほとんどすべての情熱を見ることも思い出すこともできるほど、この我々の目的には非常に有効である。しかし、この競争には、一番になること以外に、他の目的も、他の栄誉もないと思わねばならない。(中略)上回られ続けることは惨(みじ)めである。すぐ前を行く人を上回り続けるのは至福である)-- ホッブズ『法の原理』第1部 第9章 心の情念について 21 競争に象徴される情念観
By MANNERS, I mean not here, Decency of behaviour; as how one man should salute another, or how a man should wash his mouth, or pick his teeth before company, and such other points of the Small Morals; But those qualities of man-kind, that concern their living together in Peace, and Unity. To which end we are to consider, that the Felicity of this life, consisteth not in the repose of a mind satisfied. For there is no such Finis Ultimus, (utmost ayme,) nor Summum Bonum, (greatest good,) as is spoken of in the Books of the old Morall Philosophers. Nor can a man any more live, whose Desires are at an end, than he, whose Senses and Imaginations are at a stand. Felicity is a continuall progresse of the desire, from one object to another; the attaining of the former, being still but the way to the later. The cause whereof is, That the object of man’s desire, is not to enjoy once only, and for one instant of time; but to assure for ever, the way of his future desire. – Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 1: CHAPTER XII.
(私がここで言うマナーとは、行動の礼儀ではない。どのように挨拶すべきかとか、人前でどのように口を漱(すす)ぎ、歯を穿(ほじ)るべきかといった、小道徳的な点ではなく、平和と団結をもって共に生きることに関係する、人間の資質である。この目的のために、私達が考慮すべきは、現世の至福は、満足した心の静けさにあるのではないということだ。というのは、昔の道徳哲学者の書物で語られているような、Finis Ultimus(究極目的)もSummum Bonum(至高善)も存在しないからである。また、欲望が終焉した人間が生きられないのは、感覚や想像力が停止した人間が生きられないのと同じである。至福とは、ある目的から別の目的へと、欲望が継続的に進歩することであり、前者を達成することは、後者への道に過ぎないのである。その理由は、人間の欲望の対象は、一度だけ、そして一瞬の間楽しむことではなく、将来の欲望の道を永遠に保証することだからである)-- ホッブズ『リヴァイアサン』
欲望が継続的に進歩するのが<至福>なら、恐怖が理性を発動し、欲望を抑制して平和を得るということとは、矛盾してしまうということである。
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