オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(8)欲望の原動力
人間の生来の欲望の原動力は、現在の世界が彼に提供するものではなく、優越への彼の欲求、つまり、第一人者になりたい、名誉が欲しい、ほかの人々から優れた者として認められ尊敬されたい、という熱望である。人間の至上の、特徴的な情念は誇りである。彼は何よりも自分自身の優越性を確信したがっている。しかもこの欲求は極めて強いので、彼はもし現実の状況ではできなくても(たいていできないのだが)、できるつもりになって優越感を満足させようと試みがちである。かくして誇りは自惚れ(vain glory)(「その結果を喜ぶために」栄光を単に想定すること)に堕落しうる。そして自惚れの幻想にふけるために、彼は優越をめざすレースにおいて敗れるのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 308)
自分のことしか考えない身勝手な人間が社会の中で成功するわけがない。社会において成功を勝ち取るためには、社会を味方につけなければならない。詰まり、どれだけ社会に貢献したのかが問われるということである。自惚(うぬぼ)れの幻想に耽(ふけ)るから敗れるのではない。社会を味方に付けられていないから敗れるのである。
誇りという情念はパートナーを持っている。それはすなわち恐れである。動物にあっては、恐れは単純に恐怖に襲われることとして解されよう。しかし人間にあっては、恐れは何かもっと重大なものである。想像力を持ち、そして自分の種に属する者に対して優位を維持することに携わっている動物なら、必ず優位を維持できなくなることを危惧するに違いない。恐れはここでは、単に次の快を取り逃がすのではないかと不安に思うことではなくて、レースに脱落し、そうして至福を拒まれることの恐怖なのである。そしてすべてそのような恐怖は、死の恐怖という究極の恐怖の反映である。(同)
そもそも<優位>を得られる人間はごく限られている。この極少数の者だけを見て、人間社会全体を語ることにどれだけの意味があるのだろうか。先頭を走る者が追われる恐怖など取るに足らぬ特殊な話でしかない。
それから動物にあっては究極の恐怖の対象は死であるが、それがいかなる死に方であるかを問わないのに対して、人間は他人の手にかかった暴力的な死(あるいは若死に)を最も恐れる。というのは、それは不名誉であり、あらゆる人間的失敗の象徴だからである。これはホッブズが「考慮されるべき」人間的情念であると述べた恐怖である。その源は、逆境で生き続けたいという単なる欲求でもなければ、死に対する単なる嫌悪でもなく、ましてや死の苦痛への嫌悪でもない。その源は、恥ずかしい死への嫌悪なのである。(同、pp. 308-309)
「不名誉な死」を嫌う人間ならば、「名誉ある生」を好むに違いない。が、私は、<優越>に<名誉>を見るようなホッブズの底の浅い議論には違和感しかない。
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