オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(16)ホッブズの言う「理性」

ホッブズが状況を解釈するところによると、誇りと恐れは自らの間の緊張関係を解決する試みを何ら行わずにそこにとどまっていることを許されない。それはなぜなのかを我々は調べてみることもできよう。疑いもなく、理性が語るとき、それは聞かれるべきであると正当に主張するだろう。理性は情念に劣らず「自然」に属するからである。

しかしもし(ホッブズが理解するように)理性の役割が召使のものであって、出来事の原因だったであろうことや、行動の帰結になるであろうことや、欲求された目標を達成する手段になるであろうことの指摘にあるならば、それが人間の行動の選択を決定する権威はどこから来るのか? そしてもしそのような権威を理性に与えることができないとしたら、我々は理性の見解に耳を傾け、そして(危険を承知の上で)自分のすることを選ぶ以上のことをするように拘束されるのだろうか?

しっかりと生存の方に肩入れした慎重な者は、慎重さを捨てるようにたやすくは説き伏せられないだろう。また彼は、自分は「合理的」に行動しているという見解によって自分を支えることを好むかもしれない。しかし彼は(栄光の危険な冒険の方を選んだ)他者の中に、自分が見捨てた「喜び」を見るとき、自分の慎重さが突然価値を失うのを見いだすかもしれない。彼は愚行というものがあることを思い出すだろう。そして彼の折り紙付きの安全は少し色あせてしまい、少し人間性に合わないように思われるかもしれない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、

 ホッブズは<理性>というものをどのように考えているのだろうか。

In the state of nature, where every man is his own judge, and differeth from other concerning the names and appellations of things, and from those differences arise quarrels, and breach of peace; it was necessary there should be a common measure of all things that might fall in controversy; as for example: of what is to be called right, what good, what virtue, what much, what little, what meum and tuum, what a pound, what a quart, &c. For in these things private judgments may differ, and beget controversy. –- Thomas Hobbes, THE ELEMENTS OF LAW: PART 2: CHAPTER 10. Of the Nature and Kinds of Laws

(あらゆる人が自分自身の裁判官である自然状態では、物事の名称に関してお互い異なり、その違いから口論が起こり平和が破棄される。論争に陥りそうなことすべてについて共通の尺度が必要だった。例えば、何を正しいと呼ぶべきか、何を善と、何を美徳と、どれだけ多く、どれだけ少なく、何が私のものそしてあなたのものか、何を1ポンド、何を1クォート、等々である。というのは、これらのことで,個人の判断が異なることがあり,論争を引き起こすかもしれないからである)-- ホッブズ『法の原理』

This common measure, some say, is right reason: with whom I should consent, if there were any such thing to be found or known in rerum naturâ. But commonly they that call for right reason to decide any controversy, do mean their own. But this is certain, seeing right reason is not existent, the reason of some man, or men, must supply the place thereof; and that man, or men, is he or they, that have the sovereign power, as hath been already proved -- Ibid.

(この共通の尺度が正しい理性だと言う人もいる。もしそのようなものが物事の性質の中に見出され、知られているならば、私は同意する。しかし一般に、正しい理性にいかなる論争をも解決することを求める者は、自分自身の理性を実際意味しているのである。しかし、次のことは確かである。正しい理性が存在しない以上、ある人または人達の理性がその代わりをしなければならない。その人または人達とは、すでに証明されているように、主権を持つ人または人達のことだ)

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