オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(12)国家(civitas)
The consequence of natural appetite is pride and fear; the 'suggestion' and promise of reason is peace. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes
(自然な欲求の帰結は矜持(きょうじ)と恐怖であり、理性の「提案」と約束は平和である)
「人は<優越>を求め、敵を片付け<名誉>を得る。が、次々と現れる敵によって殺されて<不名誉>を被(こうむ)る<恐怖>に苛(さいな)まれ続ける。が、<理性>がこの悪循環を断ち、<合意>によって<平和>へと導く」のだ。
が、私には、このようなホッブズの見立ては、幼稚な「知的遊戯」にしか思えない。複雑な社会を合理化し、単純な演算式に掛け解を導く。詐術的と言うのは言い過ぎであるとすれば、恣意(しい)的と言う他ない。
そして共通の敵(死)を相互に承認した結果もたらされた平和を達成しうるのは、人工的に作り出された権威ある主権者に共同して服従した状態、すなわち国家(civitas)においてのみである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 312-313)
国家と個人の間には、地域共同体、教会といった「中間組織」が介在する。こういった「中間組織」が捨象され、いきなり「国家」が要請されるというのは、余りにも「非合理」である。
そこでは共通の権力が権限によって制定し実行する市民法の下で、契約はその不安定性を失い、「恒常的で永続的」になり、万人の万人に対する戦争は終焉に至る。平和への努力は、人間的理性が人間的恐怖に生ませたものだから自然なものである。(同、p. 313)
ここには「地域共同体」の社会性もなければ、「教会」の宗教性もない。顧みられるのは、「国家」という政治性だけである。こんな幼稚な論理を受け容れられるわけがない。<平和への努力は、人間的理性が人間的恐怖に生ませたものだから自然>だとホッブズは言う。が、<人間的理性>にせよ<人間的恐怖>にせよ、これらはホッブズの「空想」の産物なのであるから、「自然」なわけがないのである。
だが平和の条件は考え出されたものである。それは理性が考案(あるいは識別)したものであり、個々人が「自らを統治する権利」を「共通の権威」に譲渡する、「万人の万人との」合意において実現されたものである。(同)
<「万人の万人との」合意>など架空の話に過ぎない。実際は、人々が社会生活を営む上で、不要な衝突を避けるべく、様々な経験を積み重ねる中で、規範や規律を定め、倫理観や道徳観を育ててきたのである。「万人の万人との闘い」の最中(さなか)、突然「万人の万人との」合意がなされ、「万人の万人との闘い」は終わり、社会は平和になる、などという突拍子もない話ではないのだ。
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