オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(11)幼稚な平和論
人間の最初の反応は、優越を求めるレースにおいて自分のすぐ前にいる直接の敵を片づけることによって、勝ち誇ることである。しかし「理性」は、これを短見に基づく勝利であるとして退ける――片づけなければならない他者はなくなることがないだろうし、彼らを片づけることができるかどうかについての不安もなくなることはないだろう。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 312)
どうして人間は本源的に「優越」を求めるなどと言えるのだろうか。「優越」を得ることは、権力を得るとともに責任を負うことにもなる。権力を得ることだけにしか目が行かないから、人間は「優越」を求めようとする生き物だなどと短絡してしまうのだ。
また、ホッブズが持ち出す「理性」も可成り安っぽい代物(しろもの)である。幾ら片付けても敵はいなくならないから「優越」を求めることに待ったを掛けると言う。が、敵がいなくなる程度に勢力範囲を限定すれば良いだけの話ではないか。「小さな社会」であれば、「お山の大将」でいることは可能である。
さらに、敵を片づけることは、自分自身の優位の承認を、従って至福を捨てることである。達成すべきことは、不名誉な死の恐れからの永遠の解放である。そして恐れから発生した理性は、いかなる欲望の満足のためにも死の恐怖を避けることが必要だと述べ、優越を求めるレースの合意による制限、すなわち平和の条件に賛成を唱える。(同)
支離滅裂だ。敵を片付けてしまっては<優位>を承認する人間がいなくなってしまう、それでは<至福>は得られない、とホッブズは考える。が、敵を片付ければ、敵からの承認を得られなくとも、周囲の人々から<優位>が承認され、<至福>は得られるだろう。
他人を殺せば「名誉」、他人に殺されれば「不名誉」って、何か違わないか。もしそうなら、むしろ殺し合いが頻発化してもおかしくない。どうして「名誉」を得る以上に「不名誉」を怖れて戦わないのか。まして<不名誉な死の恐れからの永遠の解放>など「絵に描いた餅」でしかなく、只の空想ではないか。
互いに「合意」して、優越を求める競争を制限すれば、<平和>が手に入ると考えるのは、余りにも幼稚な平和論のように思われる。例えば、1928年にパリ不戦条約が締結されている。が、この条約は有名無実でしかない。何せ、「侵略」とは何かが定義できず、侵略か否かは各国の判断に委ねられたからである。たとえ侵略戦争であっても、自衛と称し戦争に打って出るのを止める術がない。それが実態であり現実なのである。
結局、「合意」などというものは平和裡における気休めに過ぎないということだ。平和だから「合意」が生きているように見えるだけであって、「合意」があるから平和なのではない。詰まり、「合意」があろうがなかろうが、戦争は起こるべくして起こるということである。
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