オークショット「人類の会話における詩の言葉」(27)詩的想像を逃避と蔑む勿れ

 こ(=社交)の会話の中では、各言語はそれぞれの観点から、他のすべての言語の用語法を規定している条件からのある解放を表現している。学知は、実践の力のための知識からの「逃避」であり、実践的活動は科学的「事実」からの「逃避」である。したがって、もし我々が詩的想像を一種の「逃避」として語るなら、(そのさい観想は、欲求や是認や追求や探究などからの「逃避」と認められるであろうが)それは、他のいかなる想像作用の言説空間とも異なって構成された言説空間にあるもの、という以上の何ものでもない。実践と科学の両方について本来言われること以上、何も言っていないに等しい。そして、詩的想像が一種の「逃避」であると言われる時、割り込んでくる非難がましい調子は、会話についての不完全な理解を表すものであるにすぎない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 289)

 詩的想像は住む世界が違うのであって、これを「逃避」と決め付けるのは適切ではない。詩的想像が「逃避」と見えるのは、実践的活動と科学的探究に携わる人達が自らの活動を中心に物事を見ているからに過ぎない。

もちろんある観点からすれば、詩は一種の「逃避」ではある。しかしそれは、(しばしば考えられているように)詩人の、大方は不如意で不自由な実際生活からの逃避ではなく、実践的活動の諸々の要点からの逃避である。しかし、実践的企てや、倫理的努力や科学的探究には、そこから逃避することを嘆かねはならぬような神聖なものなど、何もない。(同)

 詩的想像は、実生活からの「逃避」なのではなく、実践的活動と異なった種類の活動に携わっているに過ぎない。実践的活動を比較優位において、詩的想像を「逃避」であると蔑視するとすれば、それは独善的に過ぎよう。

実際これらは、我々ができればのがれたいと思っているもともとわずらわしい活動であるし、これらの言葉しか話されないような会話はまことに味気ないものであろう。ところが詩においては、欲求したり苦しんだり、知ったり工夫したりする自己は、観想する自己によって押しのけられる。背影に目を向けることは、どんな場合でも観想を裏切ることとなり、排除することが困難であるばかりか、致命的な結果をまねくものとなってしまう。にもかかわらず、会話へ参加するために、言語は自分自身の用語法で語らねばならないばかりか、また理解されることができなければならない。そして我々は、大層異なった性格をもつ相手との会話の中で、いかにして詩の言語が聴き取られ、また理解されることが可能であるのか、考察せねばならない。(同、pp. 289-290

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