オークショット「人類の会話における詩の言葉」(28)【最終】友人関係は功利的なものではない

友人や恋人たちは、互いからどんな利益を引き出そうかと考えるわけではなく、ただ相互の享受を心がけるにすぎない。友人とは、ある仕方で行動するに違いないと信頼される人であるわけではないし、一定の有益な特性を有し、妥当な意見をもっていると信頼されている人であるわけでもない。友人とは、興味や歓びや、理由のない信頼を喚起するような人なのであり、(ほとんど)観想的想像に与(あずか)らせる人なのである。

友人たちの関係は劇的なものであって、功利的なものではない。そしてまた、愛するということは、「何か善をなす」ということとは違う。それは何も義務ではないし、是認や否認せねばならないということから、一切自由である。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 291-292

 友人関係は、本来、功利的なものではない。一切功利的なものを排除できるわけではないにしても、功利的なものが表へ出てしまっては、友人関係は長続きしないだろう。

愛情や友情におけるイメージ(愛情や友情の想像様式の中で創り出されるもの)は、実践的想像作用への他のいかなる関わりにおけるよりも、「何であれ成り行きまかせ」という性質をもっている。たとえ、これらを観想的活動と呼ぶのが適当とは言えないとしても、それらは少なくとも観想を模倣するものであり、詩と実践の言語の間を架橋し、共通の理解への道すじをつけるという意味で、実践的性格のあいまいな活動であるといえよう。そしておそらく、文学作品の中で恋におちる作中人物たちが、すべての詩的イメージの中で最も一般的なものであるのも、このためである。(同、p. 292

 友人関係においては、その時々を楽しんでいるだけであって、そこから何か利益を得ようとしているわけでもなければ、何かを探求しようというのでもない。

(「有徳な行動」とか、「すばらしい性格」とか、「よい仕事」への関与などとは区別されるような)「道徳的善」の中には、行動の生気のなさや完遂の可能性からの自由があり、それが詩の模放となっているのだ。なぜならここにあるのは、個人的で自己充足的な活動であり、世界への適応から解放され立場や状態から自由であり、過ぎ来しゆく末から独立に、各人がそれにあずかることができる。(同、pp. 292-293

 「道徳的善」における<個人的で自己充足的>側面は、詩的想像における<歓び>の享受と相通ずるところがある。

そこでは、誰も、適切な行動の帰結を判断する知識がないとか、そんなことに不慣れだからと言って参加する資格がないということにはならないし、あるいは(カントが言ったように)運命の恵みが特にとぼしいとか、自然から継子(ままこ)あつかいを受けたために、かいもく才能がない、などという理由で参加を拒否されはしない。そしてそこでは、成功は「有用さ」や外的な成果とは、まったく独立しているのである。(同、p. 293

詩の言葉に開く耳をもつということは、快楽や美徳や知識よりむしろ歓びを選ぶ性向をもつこと(同、p. 295

観想的生活(vita contemplativa)は存在しないのだ。あるのはただ、好奇心やもくろみの流れから抽出され救い取られる観想的活動の、瞬間瞬間だけである。詩とは一種のずる休み、生活という夢の中の夢であり、我々の小麦畑の中に植えられた、一つの野生の花である。(同、p. 296)【了】

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