オークショット「人類の会話における詩の言葉」(23)忘却の果たす役割
ヨーロッパでは、それほど古くない時代にも我々が「芸術作品」と認め得るものを実践的活動のはしため(端女=召使いの女)とみなしていた。もっぱらその仕事は、装飾的で説明的なもの、王侯の威厳や、宗教的しきたりや大商人の生活などのかざりと考えられていた。それは、敬虔(けいけん)とか、家名の誉(ほまれ)とか、正義への尊敬や権威の擁護などを表現したり喚起するものとして賞賛されていた。また特筆さるべき人物や出来事の記念を残すため、あるいは見知らぬ人々が互いの顔を知り合うため、また、正しい信念を表したり、よい行動を教えるための手段として賞賛された。
しかし、こういったものからの解放、即ちこれらの対象を観想的注意にふさわしく工夫されたイメージと認めることは、実践的想像力の権威から逃れようとする、何か真新しい、説明のつかぬあこがれから生み出されたのではなかったし、まったく異なった種の作品の生産の中に、忽然(こつぜん)と始まったわけでももちろんない。それが生じたのは、様々の情況の変化からでありその変化が(すでにそこに存在していたものに、新しい文脈を与えることによって)それを変形し、さらにこの文脈にふさわしく物事をあんばいする性向を引き出しさえすることによってである。実際、時間の経過と人の忘れっぽさということが、この解放で大きな役割を演じていたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 285)
「忘却」というものが大きな役割を果たした。具体的な意味が、時が過ぎることで忘れ去られてしまい、後に<イメージ>だけが残されたということである。
つまり、もともとそれが言わんとするところが失われてしまった物語や、その「意味するところ」が忘れ去られてしまったイメージが生き残るとか、どこかからやってきて、その記号体系がもはや知られないような(言語的および彫塑的)イメージと遭遇するとか、ということである。
例えば『真夏の夜の夢』と『テンペスト』の中では、イメージの全体は、それらのもつ宗教的および実践的意味合いから自由になり、詩へと変形されてしまっている。もはや呪縛しない呪文があり、自らの情動的力を失ったイメージがあり、歴史と神話の双方における自分の場を失い、詩的な性格を獲得している人物たちがいるのである。(同、pp. 285-286)
<呪縛しない呪文>など、実践的価値はない。が、このように実践的意味合いから解き放たれればこそ、詩的イメージを思い描けるのである。このように具体的、特定の意味合いを喪失した言葉がイメージとなって観想されるのである。
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