オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(5)個性の合理化
if it is the enterprise of every philosopher to translate current sentiments into the idiom of general ideas and to universalize a local version of human character by finding for it some rational ground, this enterprise was fortified in Hobbes by his notion of philosophy as the science of deducing the general causes of observed occurrences. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes
(現在の感情を一般的な思想のイディオムへと翻訳し、局所的類(たぐい)の人間の人格を、何らかの合理的根拠を見出すことによって普遍化することが、あらゆる哲学者の仕事だとすれば、この仕事は、科学とは観察された出来事の一般的原因を推論することだとするホッブズの哲学観によって強化されたのである)
unlike Spinoza, who presents us with a universe composed of metaphysical individualities (man being only a special case of a universal condition), Hobbes's starting-point as a moralist was with unique human individuality; and, as he understood it, his first business was to rationalize this individuality by displaying its 'cause', its components and its structure.
(スピノザが形而上学的な個性(人間はある普遍的条件の特例にすぎない)からなる宇宙を提示したのとは異なり、ホッブズの道徳家としての出発点は、人間固有の個性にあり、彼が理解したように、彼の最初の仕事は、「原因」、成分、構造を示すことによって、この個性を合理化することだった)※形而上学=現象界の奥にある、世界の根本原理を純粋思惟や直感によって探究する学問。
ホッブズの人間性の複合的イメージの基盤にあるのは、彼が「人間性の2つの最も確かな公準」と呼ぶもの、すなわち「自然的欲望」あるいは情念の公準と、「自然的理性」の公準である。それはさまざまのイディオムの形をとって何世紀にもわたってヨーロッパの思索につきまとってきたイメージである。そしてその最も親しいイディオムはキリスト教のものではあるが、その源は異教の古代のラテン思想にまでさかのぼるものである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 305)
少なくともホッブズ自身よりは単純化して言えば、彼は人間を内的運動によって特徴づけられた身体の構造であると理解した。第1に、彼が生命的(vital)運動と呼んだものがある。これは生きていることと同視され、血行や呼吸に代表される非意志的運動である。しかし身体の構造は、それが感じとる環境の中に存在する。そして身体構造がこの環境と接触すると、その接触は生命的運動を促進するか妨げると感じられる。生命的運動に友好的な経験は快であり、善と認められる。それに敵対する経験は苦痛であり、悪と認められる。
かくして、快苦は生きていることに関するわれわれ自身の内観である。そして我々は死よりも生を選ぶから、苦痛よりも快を選ぶ。さらに、我々は自分が選ぶことを実現しようと努める。我々は自分の生命的運動を促進する接触を経験し、それを妨害する接触を避けようと努める。そしてこれらの努力は、ホッブズの理解するところでは、我々の環境の構成要素に向かう、あるいはそこから離れようとする、端緒的運動であり、両者を彼はそれぞれ欲望と嫌悪と呼ぶ。(同、p. 306)
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