オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(17)曖昧な言葉の定義
おそらく彼は
賢い者には、愚行の下にひざまずくような甘い快は世界中に存在しない
ということに、ぼんやりと気づきさえするかもしれない。いずれにせよ(だが我々が後に見るように、ホッブズはこれらの考慮を無視しているとして不当にも非難されているが)、我々はおそらく次のように疑ってみることができよう。――ホッブズがここで平和の追求と栄光の排除とを「合理的」行動として勧めているように見える際に、彼はいくつかの別の個所においてと同様、「理性は(事実ではなく)帰結についての真理を納得させる役に立つにすぎない」という自分の見解を忘れて、「理性」ということばの古い意味――そこでは理性は主人、あるいは少なくとも権威ある指導者という性格を持つと認められる――を自分に都合のよいように不当に利用しているのではないだろうか?(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 314-315)
ここには「理性」という言葉が都合の良いように持ち出されてはいないかという疑念がある。少なくとも、「理性」という言葉の定義が曖昧であることだけは間違いないだろう。
最初平和の条件は、恥ずかしい死を避ける行動に関する理性的定理として(つまり、賢慮の知恵として)我々に提出されたのだが、今や道徳的義務として現われる。(ホップズの前提によれば)明らかに、そういう状況では、平和が達成できるにもかかわらず正にその仕方で平和を宣言し達成しないということは愚かなはずである。ところがどういうわけか、そうしないことは義務違反にもなっている。またこの表現法の変更は不注意によるものでもない。というのも、ホップズが道徳的行動の性格や、道徳的行為と単に賢慮による行為、あるいは必然的な行為との間の相違を適切に理解していたことを我々は疑わないからである。(同、p. 316)
当初<平和>は、恥ずかしい死を避けるべく<理性>が要請するものであった。それがいつの間にか、道徳の要請によるものへと変化してしまっている。そもそも<平和>を不要な衝突を避ける政治的契約としてのみ語ろうとすることに無理があったのは事実であろうが、それでうまく行かないとなると、宗教的価値や社会的規範の力を借りようとするのでは余りにも節操がなさ過ぎやしないか。
ホップズの用語法においては「善」と「悪」ということばが(通例)道徳的な含みを持っていないことに注意しなければならない。「善」は単に望ましいもの、すなわち何であれ人間的欲望の対象となりうるものを意味し、「悪」は何であれ嫌悪の対象を意味する。従って、それらは「快い」とか「苦痛である」といったことばですでに意味されているものをただ繰り返すにすぎない、あらずもがなのことばなのである。(同)
が、これは、ホッブズが言葉を弄(もてあそ)んでいるだけにしか思われない。
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