オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(13)御伽噺の世界の法則
《人間の自然状態は…各人の各人にたいする戦争状態であり、このばあい人が統治されるのはみずからの理性によるのであって、自己の生命をその敵から守り維持するためには、それに役だつもので用いてならないものはない》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著23』(中央公論社):第1部 第14章 第1、第2の自然法と契約について: p. 160)
神になり代わってホッブズはこのように言うが、謂わばこれは「合理的空想」に過ぎない。そもそも人間の<自然状態>は、各人の各人にたいする<戦争状態>ではない。否、そもそも<自然状態>って何だ。非合理的なものを省いて行って、最後に残るものということか。だとすれば、それは決して<戦争>ではないだろう。
《このような状態においては、人はだれでもあらゆるものにたいして、おたがいに相手の身体にたいしてまで権利を持つ。したがって各人の万物にたいするこの自然の権利が存続するかぎり、自然がふつう人間に与えている生きる期間を生き抜くための安全は、いかなる人間にも、〔いかに力強く賢明であろうとも〕まったく保証されてはいない》(同)
it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.” -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN
(これは理性の教訓または原則である。「あらゆる人は、平和を得る見込みがある限り、平和に努めるべきであり、平和が得られないときは、戦争のすべての助力と利点を求め、利用してもよい。規則の第1の部分には、「平和を追求しこれに従う」という自然の第1の基本法則が含まれている。第2は、自然の権利の総体、それは、「あらゆる手段で、自らを守ること」である」)
まずは<平和>、駄目なら<戦争>。こんな単純な議論を誰が受け入れられようか。言う迄も無く、平和と戦争の間には「中間領域」が存在する。この中間領域には、戦争に至らぬための様々な「安全弁」が存在する。政治的に言えば「外交」であるし、社会的に言えば「規範」であるし、文化的に言えば「道徳」である。これらが「緩衝帯」となって不要な衝突を避けるのである。平和が得られないから即、戦争に打って出るなどというのは短絡過ぎて話に成らない。
《平和のために努力するよう命じたこの基本的自然法から、つぎの第2の法が引きだされる。すなわち、「平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの椎利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである」。なぜならば、各人がその好むところを行なう権利を保有しているかぎり、万人は戦争の状態にある》(ホッブズ、同、pp. 160-161)
万人が誰も「抜け駆け」せず権利を放棄するなどということが有り得るのだろうか。それこそ「御伽噺(おとぎばなし)」の世界ではないか。
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