オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(1)道徳的生とは何か
オークショットは、
The moral life is a life inter homines. – Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes
(道徳的生は、人と人との間の生である)
という。
Even if we are disposed to look for a remote ground (such, for example, as the will of God) for our moral obligations, moral conduct concerns the relations of human beings to one another and the power they are capable of exerting over one another. – Ibid.
(たとえ、道徳的義務に(例えば、神の意志のような)遠隔根拠をさがす傾向があるとしても、道徳的行為は、人間同士の関係や、人間同士が互いに及ぼすことのできる力に関係しているのである)
道徳的生が発生するのは、人間の振舞いが自然の力の必然性から免れているとき、すなわち人間行動に選択肢があるときに限られる。それだからといって、特定の選択が個々の機会になされることは必要ではない。道徳的行動は習慣になっているかもしれないからである。また個々の場合に人がある仕方で振舞うような性向を持っていても構わない。そしていかなる場合にも選択の幅が無限である必要もない。
しかし道徳的生は選択の可能性を要求する。そしておそらく我々は、何らかの種類の特定の選択(必ずしもこの行為の選択でなくてもよいが)が、ある時点になされた――たとえそれらの選択が確定した性向の中に埋もれて見えなくなってしまったとしても――と想定することができよう。換言すれば、道徳的行動は技芸(アート)であって自然ではない。それは身についた技量の行使である。
しかしここでいう技量とは、いかにして最小のエネルギーの支出によって欲しいものを手に入れるかを知るという技量ではなくて、いかにして我々が振舞うべきように振舞うかを知る技量である。すなわち欲求の技量でなく、是認と是認されたことの実行との技量なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」:『政治における合理主義』(勁草書房)森村進訳、p. 301)
ヒュームが不満を述べたのは道徳的命題と事実的命題の間の関係を突き止めようとする試みではなくて、それがなされる際の性急で不十分なやり方だった。(同、p. 302)
《道義に關(かん)して私がこれまでに出會(であ)ったすべての體系(たいけい)に於(おい)て、私は常に氣がついて來たのであるが、それらの體系を說く者は、始め暫(しばら)くのあいだ通常の論究のし方で進んで行って、神の存有を確立し、或は人間界の諸事象に關するいろいろな考案を行う。
が、そのとき突然、私は見出して驚くが、私の出會う命題はすべて、であるとかでないとかいう・命題を結ぶ・通常の連辭(れんじ)のかわりに、べきである又はべきでないで結合されて、そうでない命題には何一つ出會わないのである。
この變化(へんか)は、これを看取する者がないとはいえ、極度に重大な事柄である。何故なら、このべきである或はべきでないは、斷言の或る新しい關係を表現している。從って、これを觀察して解明する必要がある。また同時に、いかにしてこの新しい關係がそれと全く異る他の〔である又はでないの〕關係から導き出されることができるか、その理由を與(あた)える必要がある。しかも、この理由を與えることは全く想いもつかないことのように思えるのである》(デイヴィド・ヒューム『人性論(4)』(岩波文庫)大槻晴彦訳、pp. 33-34)
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