オークショット「人類の会話における詩の言葉」(20)詩的想像における活動
「リリーとの恋愛関係を描写したところには、」と私はいった、「あなたの青春の息吹きがひしひしと感じられます。むしろ、ああいう場面にあの当時の呼吸づきがそっくりそのまま出ていますね。」
「それというのも、」とゲーテはいった、「あのような場面は詩的だからさ。そして私が詩の力をかりて、すでに今は失われてしまった青春時代の恋愛感情を補おうとしたからだよ。」(エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』(岩波文庫)1831年3月28日付、p. 289)
<場面が詩的>とは、ある特定の具体的な場面ではなく、<当時の呼吸づき>がそっくりそのまま出ている場面。そして<今は失われてしまった青春時代の恋愛感情>を補うために詩の持つ想像力をゲーテは借りたのである。
詩的想像における活動は、何かを「表現」したり「伝達」したり、「模倣」「模写」「再生」「呈示」したりする活動ではない。「原的想像」なるものがあってその活動に素材を提供するのではないし、それが利用できるような何かを想像する、他の想像モデルがあるわけでもない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 281)
<原的想像>とは何か。
コールリッジは(カントにならって)すべての経験が「想像作用」であると考える傾向があった。しかし、彼が「原的想像」と呼ぶものが、実際「原的」であるのは、それが我々が最もしばしばかかわりをもつ想像様態、つまり実践的想像であるという意味でのみである。(同、p. 299)
<詩的想像>と<実践的想像>は、同じ<想像>という言葉が使われていても、その意味合いは異なる。<詩的想像>とは、何かを具体的に意図した活動ではない。何かを「表現」したり「伝達」したりしようとするものではない。
それは、自分自身の観想的イメージの享受で歓びを得る活動力に他ならない。これらのイメージが互いに合わさっていかなるパターンを作り上げるのか、より複合的なイメージの構成要素となる資格は何かは、あらかじめ決定されていない。連鎖パターン、呼応といったものが我々に歓びを与え得るのは、それらが期待に答えるものである場合、しかしそれもそれが詩的な期待である場合のみである。そしてそれらは、予期を大きくはずれて与えられることから我々を驚かせるが、それも詩的な驚きである場合にのみ、歓びを与えることができる。(オークショット、同、p. 281)
<詩的想像>とは、観想的イメージの享受で歓びを得る活動である。それは、予め決定されたものではない。詩的イメージを行き来し、時に連鎖し、時に呼応しながら<歓び>を得る観想的活動なのである。
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