アダム・スミス「公平な観察者」について(18)impartial spectator
《むろん、ここで「見る」といったのは、まさに行為の現場に現に第三者がいなければならないなどということではない。そうではなく、第三者がそこにいようがいまいが、行為の適宜性は第三者の判断によってのみ意味をもつ概念だということである。行為の「適宜性」とは、こうして当事者ではないある第三者の登場によってはじめて判定されることとなる。だが、それではいったいこの場合、第三者とは何者なのだろうか》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 64)
ここで言う〈第三者〉とは、当事者と利害関係を有(も)たない「客観的な存在」ということである。
《もちろん、文字通りの意味でいえば、第三者とは当事者以外のすべての人なのだから、可能性としていえば、当事者以外のあらゆる者がこの第三者でありうる。私が誰かの食べ物を奪ったとすれば、私と相手以外のすべての者が第三者でありうる。だから極端にいえば、すべての第三者の「同感」の程度をことごとく調査する必要があるともいえよう。だが、むろんこれは無意味なことだ。スミスが述べているのはむろんそんなことではないのであって、この第三者とはただ「利害関心をもたない(インディファレント)」観察者ということなのである。「中立的な観察者(インパーシャル・スペクテイター)」がそれである》(同)
私は、impartial
spectatorを多くの先行研究に倣って、「公平な観察者」と訳しているが訳語自体に大差はない。impartialとは「偏っていない」ということであり、それを「公平」としようが「中立」としようがどちらでも構わない。
《私とも相手とも特別の関係をもたない、もしくはもってはいても、あたかも「中立」であるかのようにふるまう者がこの「中立的な観察者」である。そして適宜性をもった行為とは、この「中立的な観察者」が是認できるような行為なのである。つまり、道徳的に適切な行為とは、中立的な観察者が同感の原理に基づいて是認できるような情念の適宜性、もしくは情念と行為の適切な関係にほかならない。スミスは、この観察者は、情念のレベルでのある種の「中庸」をもった観察者にほかならず、また、行為者には、この種の情念の抑制つまり自己規制が要求されると考えるのである》(同、pp. 64f)
スミスの言うimpartial spectatorは、どこかから「公平な観察者」を連れてくるという話ではない。自らが相手との利害関係を捨て、公平に相手を観察するということだ。それではじめて相手の行動が適切か否かを判断するために必要な「公平な情報」を手に入れることが出来るということなのである。
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