アダム・スミス「公平な観察者」について【最終回】(46)まとめ
《自分を解釈することによる自己の改変に際しては、アダム・スミスのいったimpartial spectator「偏りのない(公平な)観察者」を自分の精神のうちに受け入れなければならない…スミスは、その「公平な観察者」は「sympathy」(同情)を持っていると考えました。つまり、「人々が情感を同じくする」という人間精神の共通の地盤の上に各自が自立するときにはじめて、歴史の連続性と社会の統一性が保たれるということでしょう》(西部邁『教育 不可能なれども』(ダイヤモンド社)、p. 27)
他者に「同情」、「共感」することで、自分の行いがどのように見られているのかを知り、世間に合わせ道徳的に振舞おうとするのだが、「同情」したり「共感」したりするためには、共通の基盤が必要だ。何故なら、「観察」(observation)は、「理論」(theory)に依存するからである。詰まり、前提となる理論が異なれば、見えてくるものも違ってくるということだ。これを、「観察の理論負荷性」(Theory-ladenness of observation)と言う。
The
theory-ladenness of observation is a concept in philosophy of science that
refers to the idea that observations are affected by the theoretical
assumptions of the observer. This means that observations are already
influenced by preconceived ideas and expectations, which can come from a
variety of sources, including cultural perspectives and educational training.
(観察の理論負荷性とは、観察は観察者の理論的前提に影響されるという考え方を指す科学哲学の概念である。詰まり、観察は、文化的観点や教育的訓練をはじめとした様々な情報源から生じ得る先入見や期待に既に影響されているということである)
《ただし、彼のいう「同情」を――compassion(共感)とよんでも同じことです――過度に感情的なsubstance(実体)ととらえてはなりません。人々のcommunity(共同体)の基底はたしかにGemeinschaft(感情共有体)ではあるのですが、その共有体のさらに基底の次元には、人々の感情のやりとりにかんするルールというform(形式)が横たわっていると考えられます。
またその形式の表層にはwritten(成文)の制定法があります。そして、その深層にはunwritten(不文)の慣習法があるとみなすべきでしょう。そうした顕在的かつ潜在的な共有体のルールへの共感、それがスミスのいう「同情」であり、そうであればこそその共感を擬人化してみれば「公平な観察者」とよぶことができるのです》(同、pp. 27f)
自他ともに文化伝統や価値観が共有されていればこそ、「同情」もし、「共感」もする。その同情や共感の主体こそが、「公平な観察者」ということである。ここで「公平」とは、文化伝統や価値観といった、長い歴史の中で揉まれた「常識」によって裏打ちされたというようなものではなかろうか。【了】
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