オークショット「人類の会話における詩の言葉」(21)<美>と<真>

「美」とは(私が今それが属するのがふさわしいと考える美学理論の語りの中では)「真理」のような言葉ではない。それはまた異なったふるまいをもっているのである。「美」という言葉は、その使用がある詩的イメージを記述することであるような言葉、即ち、立派な行動を(是認しつつ)称賛したり、うまくいったこと(数学の証明などのような)を称賛したりする場合と違って、観想的傍観者の中に喚起する卓越した歓びのゆえに称賛せざるを得ないような詩的イメージを、記述することをその役割としている、そういう言葉なのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 281)

 <美>は<真>とは異なる。よって、<美>という言葉を<真理>だと受け取るとすれば、それは誤りである。<美>には、美醜の区別はあれども、真偽の判断はない。<美>には、それに触れることによって<歓び>と変わる<詩的イメージ>があるだけである。

詩は言語にはじまり言語に終る。だが詩の言語の中では、単語、形姿、音声、動きなどは、あらかじめ定めおかれた意味作用をもつ記号なのではない。それらは、チェスの駒のように、知られた規則に従ってふるまうわけでもなければ、貨幣のように、流通する一定の価値をもつと認められたものでもない。それらは特定の適合性や使用法をもつ道具ではないし、伝達されるものが既に思考や情念の中に存在しているとされる場合の伝達手段でもない。それのみか詩の言語は、およそ同じ意味を伝えているなら、他の語に置き替えができるようなあるいは他の種類の記号(例えば単語のかわりに身ぶり)でしばしば同じようにまにあうような、同義語を多く含む言語ではない。手短に言えば、それは記号的言語ではないのだ。詩においては、語自身がイメージであり、他のイメージのための記号なのではない。(同、pp. 281-282

 詩は、<記号的言語>ではない。Aという記号が必然的にBを意味するというようなものではない。詩の言語は、イメージでしかない。また、ある詩的言語が特定のイメージを喚起するわけでもない。詩的言語は、人が<歓び>を得る源と成り得る<イメージ>でしかない。

想像することは、それ自体発話であり、発話がなければいかなるイメージもないのである。それは、語彙というものをもたない言語であり、従って、模倣によっては学習できない言語である。(同、p. 282

 <想像>することは<発話>であり、その<発話>は<イメージ>から生まれる。一般的な言語が模倣によって習得されるのに対し、語彙を持たない<イメージ>という言語は、模倣によって学習することは出来ない。

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