オークショット「人類の会話における詩の言葉」(25)詩的想像の分からぬ人達

特定の活動様式が卓越していると考える人は誰でも、その様式に関して詩がはたす仕事を見出そうと務めるに違いない。それゆえ実践的企てや道徳的努力が人間のもっぱら主要関心事であるからには、詩を弁護する最も一般的な形が、この関心に詩が答え得ることをうけあうことであるとしても、何ら不思議はない。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 287)

 我々は、詩が有する曖昧さの裏に、何か深い意味合いが潜んでいるのではないかとつい考え勝ちである。実践的企てや道徳的努力に四苦八苦している人達には、そこに何か足掛かりがあるのではないかと見てしまう。

芸術と社会との関係を探究することは、実践活動に従事する人々の社会との関係を探究することである。つまり「社会秩序における詩の『機能』は何か」を問うことである。このような筋道をたどる著者のある者は、詩的想像についてこれといった考えがないので、それをまともな生活のなりわいからの、悼(いた)むべき逸脱であると考えてしまう。あるいはせいぜいのところ、それは休日のハイキングのようなもので、我々は休養をとり、またおそらくは新たな活力を得て再び仕事へもどることができるのだと思われているのである。(同)

 詩は社会にどのような影響を与えるのかということであるが、これこそ詩を実践的活動の一部と捉えてしまう誤りである。

詩を実践的努力のための有益な僕(しもべ)であるかのように見なし、いろいろな有用な仕事をするものだと考える人もいる。詩の職務とは、このような人々によれば、我々にいかに生きるべきかを言ってくれたり、我々の行動に関するある種の批判を提供してくれるものである。それは、道徳的諸価値の尺度を記録したり、流布するものである、また特殊な道徳教育を与え、よき感情を単に記述したり推賞したりするのみならず、実際に我々の中に鼓舞するものである。あるいはまた、感情生活の健康を増進させ、腐敗した良心をいやし、「我々を存在にあわせて調整し」それが現われる「社会」の構造や機能を反省するものである。そして、みじめな人々を慰め、罪人たちのどぎもをぬき、あるいはただ単に、「仕事の時に音楽を」提供するものだったりするのである。(同、pp. 287-288

 詩を「神の啓示」のように感じ、そこに何か大切なものが隠されていると考える。そのことが詩を実践的世界に引きずり込み、詩をただ鑑賞するということを妨げる。観照的想像の世界に遊ぶことが出来なくなってしまう所以(ゆえん)である。

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