オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(14)ホッブズ説の難点

《もしも他の人々が彼のようにみずからの権利を放棄することを欲しないならば、だれもその権利を放棄すべき理由はない。なぜなら、そのときには自分を平和に向かわせるより、むしろ餌食にさらす〔そうする義務はだれにもない〕ことになるからである。それこそが「福音書」中のあの法である。「すべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ」。また、万人の法もそうである。(みずからの求めざるところを、他に行なうなかれ)》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著23』(中央公論社):第1部 第14章 第1、第2の自然法と契約について: p. 161)

 単に「理性」が要請するからということで、万人が自らの権利を放棄するわけではない。ホッブズも言うように、「すべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ」なる宗教的要請も必要となってくる。他にも政治的要請もあれば、文化的要請もある。費用対効果を考えた経済的要請もあるだろう。あれやこれやそんなことを考えれば、個々人の「理性」の要請などちっぽけなものに見えては来まいか。

人間の生は、理性が解決策を見いだす、誇り(卓越性と名誉への情念)と恐れ(不名誉の懸念)との緊張関係として解釈される。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 313

などというのは単なるホッブズの思い込みである。

だがそこには難点が存在するのである。

 第1に、この提案された解決は一面的である。恐れは和らげられるが、それは至福を犠牲にしてである。そしてこれは、不名誉への恐れが名誉への欲求をしのぐ者だけが欲するであろう状況である。このような者ならば、名誉も不名誉も両方とも除去された世界に生き残ることに満足するだろう。これは正確にはホッブズが我々に述べて聞かせてきた人間性ではない。結局のところ、理性が我々に教えることは、我々が恐怖を避けられる方法に尽きるように思われる。しかし誇りに満ちた人間は、この低級な(折り紙つきではあっても)安全を自分の要求に対する答えとして受け入れる気にはならないだろう――たとえそれを拒めばほとんど確かに不名誉を招くことを信じていても。(同、p. 313

 当たり前であるが、敵を片付けて名誉が得られる人間はごく一部に限られる。その他多くの人々は、不名誉にも敵に殺されるのではないかという恐怖に怯え続ける。平和を求めるのは後者の人達であって、前者の優越せる人々ではない。詰まりは、万人の理性が平和を求めるのではないということである。

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