オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(20)道徳的努力の対象は平和

Now, as Hobbes understood it, the object of moral endeavour is peace; what we already know to be a rational endeavour is now declared to be the object of just endeavour. Or, to amplify this definition a little, just conduct is the unfeigned and constant endeavour to acknowledge all other men as one's equal, and when considering their actions in relation to oneself to discount one's own passion and self-love.

(さて、ホッブズが理解したように、道徳的努力の対象は平和である。我々がすでに合理的努力であると知っていることが、今度は公正な努力の対象であると宣言されたのである。あるいは、少しこの定義を敷衍(ふえん)すると、公正な行為とは、他のすべての人を自分と同等の人と認め、自分との関係で彼等の行動を考えるとき、自分自身の情熱と自己愛を割り引く、偽りのない不断の努力なのである)

「偽りのない」ということばは、私の考えるところでは、この努力はそれ自身のためになされるものであって、たとえば刑罰を避けたり自分のための利益を得たりするためになされるものではないときに限って、その努力は道徳的努力である、ということを示す趣旨なのだろう。そして「努力」ということばは、単にいつも平和を意図していることだけでなく、我々の行為の帰結として平和が生じそうな仕方でいつも行為することを意味しているのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 317-318

 為(ため)にするものでない、詰まり、下心がないということが「偽りのない」(unfeigned)という言葉の意味なのであろう。だから「偽りのない努力」は、「道徳的努力」ということになるわけである。また、ホッブズが用いるendeavourには、単なる「意図」(intention)だけではなく、実現に向けての「行為」(action)も含むものと考えられる。

 すると我々の目の前にある指示は、「人は誰でも平和への努力をすべきだ」というものであり、我々の問題は、「道徳的行動の固定のためにホップズはいかなる理由あるいは正当化を与えるか?」というものである。なぜ人はその約束を守り、自己を他の人々に適応させ、自分の分け前以上のものを取らず、自分自身の訴訟を裁かず、他者に憎悪や軽蔑を示さず、他者を自分と同等の著として扱い、ほかにも平和にふさわしいことは何でも行うように、偽りなく努力すべきなのか? ホップズは人間の自然の傾向とそれについてなされるべきこととの間のギャップをいかにして橋渡ししたのか?(中略)

 この問題へのホップズの解答について、考慮に値する解釈が現在3つある。(同、pp. 318-319

とオークショットは言う。第1のものは、

 人はみな「自分自身の本性の保全」か、それ以上のこと、たとえばレースで首位に立つといったことを求めて努力する。努力の対象が何もないなどということはありえない。「欲求を持たないとは死んでいるということである。」(同、p. 319

 ここにも自らが思い描く結論に導びこうとするホッブズの強引さが顔をのぞかせているように思われる。

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