オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(9)違和感だらけのホッブズ説

人間の生は、誇りと恐れとの緊張関係である。この2つの1次的情念のいずれもが他方の性質を説明する。そして両者の結び付きが、人間が相互にとり結ぶ両義的な関係の特徴となっている。人間は相互を必要とする。もし他者がいなかったら、卓越性も、優位の承認も、名誉も、賞賛も、言うに足るほどの至福も存在しない。しかしながら万人は万人の敵であり、優位を求めて競争していて、この競争に失敗することを危惧しないではいられないのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 309)

政治的社会の成立していない「自然状態」では、個人が自分の利益だけを追求するため、無秩序な「戦争状態」に陥るとホッブズは考えた。が、「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes)などというのはホッブズの「妄想」である。否、そもそも「自然状態」などというもの自体が、ホッブズの頭の中の作り事に過ぎないのである。

《すべての人間を畏怖させうる権力のないところでは、人間は仲間をつくることになんの喜びも感じない〔どころか、逆にひじょうな悲哀を覚える〕》(ホッブズ「リヴァイアサン」永井道夫・宗片邦義訳:『世界の名著23』(中央公論社):第1部 第13章 人間の自然状態、その至福と悲惨について:p. 156

 むしろ、政治が未発達であれば、仲間を集(つど)って協力し合わなければ生きていけないのではないかと私などは思ってしまうのであるが、どうも西欧の人達は違うようである。

《人間の本性には、争いについての主要な原因が3つある。第1は競争、第2は不信、第3は自負である。

 第1の競争は、人々が獲物を得るために、第2の不信は安全を、第3の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる。第1は、他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となるために、第2は自分を防衛するために、いずれも暴力を用いさせる。第3は一語、一笑、意見の相違、その他過小評価のしるしになる瑣末事にかんして、それらが直接自己の人格に向けられたか、間接に自己の親戚、友人、国民、職業あるいは名称に向けられたかを問わず、やはり暴力を用いさせる》(同)

 狩猟民族と農耕民族の違いなのであろうか。日本人なら、競争よりも協働、不信よりも信頼、自負よりも謙遜を美徳と考えるに違いない。日本人は、和を尊び、基本的に争いごとを好まない民族である。だから、このようなホッブズの記述には違和感しかないだろう。

《自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある》(同)

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