オークショット「人類の会話における詩の言葉」(26)詩に恣意的役割を宛がう人達
(シラーの)もう少し深遠な見解においては、芸術の「社会的価値」は、実践的いとなみにばかり専念している生活の一様性や堅苦しさから自由にさせてくれることに存在するのだ、と認められている。そして悪名高き誇張的な言い方で詩人はこれまで「言葉の意識されざる立法者」と呼ばれてきたのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 288)
実生活の一様性や堅苦しさからの解放、それが芸術の社会的価値だとドイツ思想家のシラーは言うのである。
世界と我々自身について探究することが、人間のとりわけ本質的な仕事であると考える著作家は、当然詩の役割をも学知(scientia)との関係で解釈することに関心を向けがちである。(同)
探究という活動に慣れ親しんだ著作家は、詩もまた探究という色眼鏡を通して見てしまいがちである。当然、詩の役割を考えるにあたっても<学知>が持ち出される。
詩的想像の中に、学知という足かせからの気晴ししか見ないような著作家たちがいる。彼らは詩の非記号的言語の中に、科学的コミュニケーションにとっては役に立たない道具しか見出さないのである。これらは一種の差別廃止論者である。彼らは注目すべき系譜をもっていて、17世紀以降ずっと我々の社会で羽ぶりがいい。しかし彼らと仲間を組む著作家たちは、詩的想像に、「事実をありのままに見る」力を要求し、詩を世界についての知識の記録や貯蔵と見なし、世界の本質についての明断で公平な意識を与えてくれる力と役割を帰属させるべきもの、というように詩を理解するのである。そしてまた、科学的探究や発見の過程そのものの中に、彼らが詩的想像と見なすような要素を識別する人々さえいるのである。(同)
詩は、記号的言語の世界に属するものではない。だから科学的コミュニケーションは成り立たない。詩的想像に<学知>が見出せないからといって、それを<気晴らし>としてしか見ないのは偏見である。が、この偏見が大手を振って社会を闊歩(かっぽ)しているのである。詩に<事実>を要求し、詩を記号化し、画一的に解釈しようとする。そして詩に対し、探究活動に都合の良い恣意的な役割を宛(あて)がうのである。
唯一考慮に価する詩の弁護論は、詩の言語の位置と特質を、人間の会話ということの中に識別しようとするものである。即ち各言語が、それぞれの用語法で語り、ある時はその内のあるものが他より声高に語りはするが、どれも本性上の優位はもたず、まして絶対性などもたないような会話である。詩的発話と、また実際他のすべての発話様式を考察するのに適切な文脈は、実践的企てに関わる「社会」でもなければ、科学的研究に従事するそれでもない。それは会話する人々のこの社交である。(同、p. 289)
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