オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(47)矛盾するホッブズの主張

Reason serves only to convince the truth (not of fact, but) of consequence. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN, PART III. CHAPTER XXXIII. OF THE NUMBER, ANTIQUITY, SCOPE, AUTHORITY, AND INTERPRETERS OF THE BOOKS OF HOLY SCRIPTURE

(理性は、(事実ではなく)帰結の真理を確信させることにしか役立たない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第3部 第33章 聖書諸篇の数、古さ、範囲、権威、解釈者について

それ(=理性)は原因と結果についての仮定的命題だけを扱う。人間の行動におけるその仕事は、欲求された目的達成のためにふさわしい手段を示唆することである。何物も合理的だという理由によって義務になることはない…自然法は、法律として、そして単に人間の保全についての結論としてではなしに、「自然の理性の指示」の中で我々に知られている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 339

God declareth his Lawes three wayes; by the Dictates of Naturall Reason, By Revelation, and by the Voyce of some Man, to whom by the operation of Miracles, he procureth credit with the rest. From hence there ariseth a triple Word of God, Rational, Sensible, and Prophetique: to which Correspondeth a triple Hearing; Right Reason, Sense Supernaturall, and Faith. As for Sense Supernaturall, which consisteth in Revelation, or Inspiration, there have not been any Universall Lawes so given, because God speaketh not in that manner, but to particular persons, and to divers men divers things. – Ibid., CHAPTER XXXI. OF THE KINGDOME OF GOD BY NATURE

(神は、自らの法を3つの方法で示す。自然理性の指示、啓示、そして奇跡の作用によって他者との信用を得たある人の声によって。ここから3つの神の言葉が生まれる。理性的な言葉、感覚的な言葉、預言的な言葉である。これには、3つの聞き方が対応する。正しい理性、超自然的な感覚、信仰である。啓示や霊感からなる超自然的な感覚については、普遍的な法則はこのように規定されてはいない。なぜなら、神はそのような方法ではなく、特定の人物に、そして多様な人物に、多様なことを語るからである)--第31章 自然による神の王国について

 ホッブズが<理性>というものをどのように定義しているのかが判然としないのが混乱の原因である。

我々は理性によって道徳的義務の創造者としての神を知ることができる…我々は理性によっては道徳的義務の創造者としての神について(あるいは神が来世で与える報償や刑罰について)は何も知らず、第1原理としての神についてしか知ることができない。(オークショット、同、p. 340

 我々は、果たして理性によって<道徳的義務の創造者としての神>を知ることが出来るのか出来ないのか。

我々が国家に服従すべき義務は……あらゆる国法以前にある」…それは「自然的」な普遍的な義務であると示唆し、そこから国家の主権者に反逆してはならない義務を導き出す。しかし彼は別の所では、この「自然的」な義務の普遍性を否定し、それが適用される人のクラスを特定し、それを契約あるいは承認に依拠させる。(同)

 我々が平和を求めて自らの権利の一部を放棄し、互いに「契約」を結んで「国家」(civitas)を創ったのであれば、「国家」に服従する義務が発生するのは当然である。が、これは「自然的」義務と称すべきものではない。

a Civill Law, that shall forbid Rebellion, (and such is all resistance to the essentiall Rights of Soveraignty,) is not (as a Civill Law) any obligation, but by vertue onely of the Law of Nature, that forbiddeth the violation of Faith; which naturall obligation if men know not, they cannot know the Right of any Law the Soveraign maketh. And for the Punishment, they take it but for an act of Hostility; which when they think they have strength enough, they will endeavour by acts of Hostility, to avoyd. – Ibid., CHAPTER XXX. OF THE OFFICE OF THE SOVERAIGN REPRESENTATIVE

(市民法は、反乱(そしてそのような主権者の本質的な権利に対するすべての抵抗)を禁ずるが、それは(市民法としては)いかなる義務でもなく、信仰に反することを禁じる自然法によるものでしかない。この自然の義務を知っていなければ、主権者が制定するいかなる法の権利も知り得ない。だから、刑罰について、これを敵対行為としか受け取らないのである。自分達に十分な力があると思えば、彼らは敵対行為によって、これを回避しようと努力するのである)--同、第30章 主権を有する代表者の職務について

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