オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(51)神の拡張

God himselfe, by supernaturall Revelation, planted Religion; there he also made to himselfe a peculiar Kingdome; and gave Lawes, not only of behaviour towards himselfe; but also towards one another; and thereby in the Kingdome of God, the Policy, and lawes Civill, are a part of Religion; and therefore the distinction of Temporall, and Spirituall Domination, hath there no place. - Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 1. CHAPTER XII. OF RELIGION

(神自ら、超自然的啓示によって、宗教を植え付けた。そこに神は、自分に特別な王国を作りもし、自分に対する行動だけでなく、互いに対する法も与えた。その結果、神の王国では、政策と市民法は宗教の一部であり、したがって、時間的支配と精神的支配の区別はそこには存在しない)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第12章 宗教について

It is true, that God is King of all the Earth: Yet may he be King of a peculiar, and chosen Nation. For there is no more incongruity therein, than that he that hath the generall command of the whole Army, should have withall a peculiar Regiment, or Company of his own. God is King of all the Earth by his Power: but of his chosen people, he is King by Covenant. – Ibid.

(神が全地上の王であることは事実だ。しかし、神は特別な、そして選ばれた国民の王であってもよい。というのは、全軍の総指揮官が、さらに自分自身の特別な連隊や中隊を持つことほど、そこに不適当なことはないからである。神は自らの力によって全地上の王であるが、その選ばれた民については契約による王である)―同

 ホッブズは、「宗教的神」と「政治的神」の2人の神を想定している。コモンウェルスを創造し、立法した神は後者であり、<契約による王>としての神のことである。

人間の中の合理的な性向は平和を求める努力であると考えるべきだ、と彼が信じていたことは明らかと思われる。そして平和は、他のあらゆる人々を我々と同等の人と認め、約束を守り、軽蔑や憎悪を見せず、首位を占めていると認められていい気になるために他のあらゆる人々を出し抜こうと努力しないことを意味する。

このような生き方は理性が示唆するものだが、理性はまた、それを設立し維持するための手段をも示唆する。それが国家である。国家の完成から得られるものは、他の人々の手による暴力的で恥ずかしい死の絶え間ない恐れからの解放である。そしてこの点までは、平和を求める努力の十分原因あるいは動機は、恥ずかしい死の恐怖の中に見いだされる。恐怖は理性を促し、理性は恐怖を生み出す環境の回避のためにしなければならないことを明らかにするのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 343-344

That which gives to humane Actions the relish of Justice, is a certain Noblenesse or Gallantnesse of courage, (rarely found,) by which a man scorns to be beholding for the contentment of his life, to fraud, or breach of promise. This Justice of the Manners, is that which is meant, where Justice is called a Vertue; and Injustice a Vice. – Hobbes,Ibid., CHAPTER XV. OF OTHER LAWES OF NATURE

(人道的な行為に正義の味付けをするのは、(滅多に見られないが)人が自分の人生の満足のために詐欺や約束違反に恩義を蒙(こうむ)っていることを軽蔑するある種の勇気ある気高さである。礼節のこの正義は、正義が美徳と、不義が悪徳と呼ばれる場合、意味されるものである)―ホッブズ、同、第15章 他の自然法について

ホップズは人が約束を守るのは単に約束を破った結果が恐ろしいからではなく、「それを破る必要がないと見えることに存する栄光あるいは誇り」からであるかもしれないことを認める。彼は度量の大きさを、不正を「軽蔑」することから生ずる正しい行為と同視し、人々は時には何らかの種類の恥を蒙るくらいなら生命を捨てる用意があると認めた。そして我々がこれを真正のホップズ的性格として認めることの妨げになるのはただ1つ、ホップズは「誇り」という言葉をいつも悪い意味で使っていたという、全般的な断定である。(同、p. 346

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