オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(40)政治的神

神が本当の意味での法の創造者として知られるに至るのは、彼らが神を自分たちの統治者として承認するからである。この承認は、そこからあらゆる義務が「発生」する不可欠の「行為」である。なぜならこの行為がなければ統治者は知られないままなのだから。すると神の万能ではなしに、契約あるいは承認こそが、神が本当の意味での法律を作る権限の源なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 333-334)

 「宗教的神」は、畏怖する対象としての神である。他方、「政治的神」は、契約によって、自分たちの統治者として承認された神である。平和を得るために、<神>と契約するか否かは、政治的な問題である。そして、<神>と契約することによって、<神>が創造した<法>を守る義務が生じるのである。

既知の創造者を持つ以外にも、自然法は2つの他の特徴を持っていなければならない。すなわち、それはそれに従うように強いられる人々によって知られているか、知ることができるものでならなければならない(つまりそれは何らかの仕方で「公表」あるいは「公布」されていなければならない)。またその法の「権威ある解釈」がなければならない。ホッブズは自然法がこれらの特徴を持つと考えていただろうか?(同、p. 334

 2つの特徴のうちの前者は、これまでも指摘されてきたことである。が、ここで重要だと思われるのは、その法の「権威ある解釈」が必要であるとする後者の指摘である。法はただ存在しているだけでは十分に用を足さない。人々が法を遵守(じゅんしゅ)せねばならないと思うに足る権威付けが先ず必要である。さらに、その法が具体的にどのような意味をもつものであるのかについて、公(おおやけ)の、定まった解釈がなければならないのである。

 第1の点に関しては、我々が今考察しているホッブズ解釈は全然難点がないように見える。それはホッブズの次のような言明に依拠している。――自然法は神からその自然的臣民に対して、「自然の理性」あるいは「正しい理性」の中で公布されている。それはこのようにして「神の他の言葉なしに」知られている。推論能力が大したことのない人々でも自然法の十分な知識は得られる。――(同)

But they say again, that though the Principles be right, yet Common people are not of capacity enough to be made to understand them. I should be glad, that the Rich, and Potent Subjects of a Kingdome, or those that are accounted the most Learned, were no lesse incapable than they. But all men know, that the obstructions to this kind of doctrine, proceed not so much from the difficulty of the matter, as from the interest of them that are to learn. Potent men, digest hardly any thing that setteth up a Power to bridle their affections; and Learned men, any thing that discovereth their errours, and thereby lesseneth their Authority: whereas the Common-peoples minds, unlesse they be tainted with dependance on the Potent, or scribbled over with the opinions of their Doctors, are like clean paper, fit to receive whatsoever by Publique Authority shall be imprinted in them. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART II. OF COMMON-WEALTH: CHAPTER XXX. OF THE OFFICE OF THE SOVERAIGN REPRESENTATIVE

(しかし、彼らはまた言うのだ、たとえ原理が正しくても、一般大衆にはそれを理解させるだけの能力がないと。王国の金持ちで力のある臣民、あるいは最も学識があると見做されている人々が、彼らほど能力がないわけではなければ何よりだ。しかし、すべての人が知っていることだが、この種の教義に対する障害は、問題の難しさよりも、学ぶべき人々の興味関心から生じる。力のある人は、感情を抑える力を生じるものはほとんど消化せず、学識のある人は、自らの誤りを発見し、その結果、自らの権威を弱めるものはほとんど消化しない。一方、一般大衆の頭は、力のある人への依存に汚染されていたり、かかりつけ医の意見が殴り書きされていたりしなければ、綺麗な紙のように、公的権威によって刻印されるものは何でも受け取るのに適している)―ホッブズ『リヴァイアサン』第2部 第30章

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