オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(43)自然法の解釈
確かに私人の「自然の理性」あるいは「良心」は自然法の解釈者として描くこともできる。だがそれらは、法律としての自然法の「権威ある」解釈を与えるものと考えることはできない。各人が自分自身の解釈者ならば、情念の偏見を排除することはできない(そして良心は結局、自分がしたことやしそうな傾向のあることを是認するものにすぎない)だけでなく、このようにして解釈された法の義務は、平和を求めて努力すべき普遍的な義務であることをやめ、せいぜいのところ、各人が誠実に法だと考えているものに従うべき義務になってしまう。
だがそれでは十分でない。「それ」の下にある人ごとに違うかもしれない法律は、全然法律ではなくて、立法者(この場合は神)が我々にいかに振舞うよう望んでいるかに関する多様な意見にすぎない。実際、法を公布し解釈する共通の権威のないところには法は存在しない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 335-336)
The Interpretation of the Lawes of Nature, in a Common-wealth, dependeth not on the books of Morall Philosophy. The Authority of writers, without the Authority of the Common-wealth, maketh not their opinions Law, be they never so true. That which I have written in this Treatise, concerning the Morall Vertues, and of their necessity, for the procuring, and maintaining peace, though it bee evident Truth, is not therefore presently Law; but because in all Common-wealths in the world, it is part of the Civill Law: For though it be naturally reasonable; yet it is by the Soveraigne Power that it is Law: Otherwise, it were a great errour, to call the Lawes of Nature unwritten Law; whereof wee see so many volumes published, and in them so many contradictions of one another, and of themselves. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART II. CHAPTER XXVI.
(コモンウェルスにおける自然法の解釈が依拠するのは、道徳哲学の書物ではない。コモンウェルスの権威を有さぬ作家の権威によって、どれほど正しかろうとも、彼らの意見が法になることはない。私が、道徳的美徳に関して、そして平和を手に入れ、維持するためにそれが必要であることについて、この論文で書いたことは、明白な真理だけれども、それゆえ現在、法となるわけではない。が、世界のすべてのコモンウェルスにおいて、それは市民法の一部だからである。というのも、たとえ生来正当なものであったとしても、それが法となるのは主権によるものだからである。さもなければ、自然法を不文法と呼ぶのは大きな誤りであろう。これについては、非常に多くの書物が出版され、その中に、互いにそしてそれ自身について非常に多くの矛盾が見られるのである)―ホッブズ『リバイアサン』第2部 第26章
The Interpretation of the Law of Nature, is the Sentence of the Judge constituted by the Soveraign Authority, to heare and determine such controversies, as depend thereon; and consisteth in the application of the Law to the present case. For in the act of Judicature, the Judge doth no more but consider, whither the demand of the party, be consonant to naturall reason, and Equity; and the Sentence he giveth, is therefore the Interpretation of the Law of Nature; which Interpretation is Authentique; not because it is his private Sentence; but because he giveth it by Authority of the Soveraign, whereby it becomes the Soveraigns Sentence; which is Law for that time, to the parties pleading. – Ibid.
(自然法の解釈は、主権者によって任命された裁判官の判決であり、そこに頼る論争を審問裁定し、当該事件に対し法を適用する。というのは、裁判所法で、裁判官が行うのは、当事者の要求が自然な理性と衡平性に一致しているかどうかを検討するだけなので、裁判官が下す判決は、自然法の解釈ということになる。この解釈が真正であるのは、裁判官個人の判決ではなく、主権者の権威によって判決を下すからである。それによって、裁判官の判決は、主権者の判決となり、訴訟当事者に対するその時の法となるのである)
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