オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(61)「万人の万人に対する戦い」は不自然状態

分別ある人がすべて求めていること、この契約の最初の履行者があてにしていることは、持続的な平和の状態だから、この状況は次のような状況として理解する方がもっとよい。そこでは他の当事者のうち十分なだけの人々が、十分なだけの時間、自発的に履行するため、いつでも特定の機会に服従する気にならない人々に強制を加える主権者の十分なだけの権力を発生させることを期待してもおかしくないので、最初の履行者になって履行し続けることは不合理ではない。というのも、最初の履行者になることが合理的か否かは、常に自分の信頼に応えてくれる特定の人々の不変の集団があると合理的に期待できるか否かにはかかっていないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 354)

 <分別ある人がすべて求めていること…は、持続的な平和の状態だ>と言い切る根拠は何か。これは、<万人の万人に対する戦い>が自然状態という前提とは真逆である。

The Passions that encline men to Peace, are Feare of Death; Desire of such things as are necessary to commodious living; and a Hope by their Industry to obtain them. And Reason suggesteth convenient Articles of Peace, upon which men may be drawn to agreement. These Articles, are they, which otherwise are called the Lawes of Nature -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART 1. CHAPTER XIII.

(人を平和に向かわせる感情は、死の恐怖、広い生活に必要なものの欲望、そしてそれらを手に入れるための、努力による希望である。そして理性が、人が合意するのに便利な平和の条文を提案する。これらの条文は他に、自然法とも呼ばれている)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第13章

 人間には感情もあれば理性もある。だから、平和を求めるのである。が、もし仮に人間から感情や理性が失われてしまえば、闘争本能だけとなってしまって、「万人の万人に対する戦い」に陥る。詰まり、「万人の万人に対する戦い」とは、ごく特殊な状況において出来(しゅったい)する、ホッブズが言うのとは正反対の「不自然状態」と言うべきなのではないかと思われる。

いかなる時をとっても、そこには服従する気になっている人々が十分なだけいるだろう、という合理的な期待が持てれば十分である。貪欲や野心やその種のものの雲が空をおおい、その影は時にはこの人に、また時にはあの人にかかる。いつでも変わらずに契約を守るだろうと頼りにできる人は誰一人いない。だがそれは必要ではない。いかなる時にも、その時従う気にならない人々を恐怖によって服従させるに足るだけの権力を自発的な服従によって主権者に与える、と合理的に信頼できる人が十分なだけいれば足りる。(オークショット、同、pp. 354-355)

 いかにも言い訳がましく聞こえるが、それは、「万人の万人に対する戦い」が自然状態だと前提するからではないか。そうではなく、普通人間には闘争本能だけではなく、感情や理性がそなわっており、それが故に平和が希求される。時として、感情や理性の箍(たが)が外れてしまう者も出て来ることもあろうが、そのような場合でも、「コモンウェルス」があり、「自然法」が整備されていれば、彼らが暴走することを防ぐことが出来る、と考える方が遥かに自然だと思われる。

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