オークショット「人類の会話における詩の言葉」(7)両次元の認識を持つわけではない実践的活動は抽象的
これら両次元の認識を欠いた実践的活動は、なお抽象的なものにとどまっている。実際、他人の活動の中にこれらの倫理的カテゴリーの働きを知覚することはできても、それらを自分の欲求の充足のためにこれらの自己たちから期待できる手助けや妨害への手引きとしか見なさないような人を想定できよう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 252)
詰まり、具体的な実践的活動には、「欲求―反発」のイメージだけではなく、「是認―否認」のイメージも必要であるということである。
それ(=両次元の認識を欠いた実践的活動)はあくまで単なるイメージにとどまり「事実」としての資格は欠いている。時には、是認は欲求の活動と合致するように見える。例えば、オーウェン瀑布(ばくふ=滝)の観察者は(何もそれについて言ってはいないが)明らかに、彼の欲求のイメージの性質についていかなる疑問もいだいてはいない。他のいろいろな場合でも、是認と否認は、欲求や反発の批判者として現われる場合が多く、第2の現実の中で(in an actus secundus)働く。(同、pp. 252-253)
※ 現実態は、「形相」としての第1現実態(actus primus)と「働き」としての第2現実態(actus secundus)に区分される。
しかし、たとえどう現われようとも是認または否認された欲求や反発というイメージは、ただ是認したり否認する活動の中でのみ知られるのに変りない。そして、是認と否認という次元が認められるなら実践的想像という活動とは、欲求されかつ是認されたイメージでもって我々の世界を満たすことを目標にするものと言えよう。(同、p. 253)
ホッブズは、
《他の人々の行為と自分自身のそれとを比較考量し、もしも前者があまりに重いように思えたならば、前者を秤(はかり)の反対側にかけ直し、自分自身の行為を前者の代わりにかける。そして、自分自身の情念や自己愛がまったく秤にかからないようにする》(ホッブズ「リヴァイアサン」第15章:『世界の名著23』(中央公論社)永井道夫・宗片邦義共訳、p. 184)
と言う。これをオークショットは、次のように言い換えている。
倫理的行動における自己は、諸々の自己が構成する共同体の平等な構成員なのであり、是認と否認とは、この共同体の構成員としての彼らに属する活動なのである。実践的活動における倫理的技能――ars bene beatique vivendi(正しく幸福に生きる技)とは、かかる自己として承認された自己たちとの関係において、いかにふるまうべきかという知恵なのである。(オークショット、同、p. 253)
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