オークショット『政治における合理主義』(9) ベーコンの登場

「知の現状は、隆盛でもなければ大いに前進しつつある訳でもない」とべーコンは書いた。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 15)

That the state of knowledge is not prosperous nor greatly advancing; and that a way must be opened for the human understanding entirely different from any hitherto known, and other helps provided, in order that the mind may exercise over the nature of things the authority which properly belongs to it. -- Francis Bacon, Preface to the Instauratio Magna

(知の状態は順調でも大いに進歩してもいないということ。そして、これまで知られていたものとは全く異なる道が人間の理解のために開かれ、精神が物事の本質に正しく属する権威をその本質に行使できるよう、他の助けを提供しなければならないということ)

IT SEEMS to me that men do not rightly understand either their store or their strength, but overrate the one and underrate the other. Hence it follows, that either from an extravagant estimate of the value of the arts which they possess, they seek no further; or else from too mean an estimate of their own powers, they spend their strength in small matters and never put it fairly to the trial in those which go to the main. -- Ibid.

(人は自分の蓄えや力を正しく理解せず、過大評価することもあれば、過小評価することもあるように私には思われる。したがって、自分の持っている技術の価値を非常に高く見積もって、それ以上求めないか、あるいは自分の力を余りにも低く見積もって、取るに足らないことには力を使うが、主要部に通じるものにおいては決して自分の力を正当に試さないというようなことが起こる)

そしてこの隆盛の欠如は、進行中の種類の探究に対して敵対的な精神傾向が残存しているせいにすることはできなかった。その欠如は、アリストテレス的な科学の諸前提から(もちろん細部は別として)十分に解放された精神が患っている故障、と考えられたのである。欠けているように見えたのは、探究の霊感でもその組織立った習慣でさえもなく、探究のための自覚的に定式化された技術、解釈の技芸、それのルールが書き留められている方法、であった。(オークショット、同)

 ベーコンは、探究のための<技術知>が欠けていることが問題だと指摘したわけである。

この欠如を埋める営みが、私が合理主義と呼んだ新しい知的性格の紛うことなき誕生の機会となったのである。この営みの初期の歴史における中心人物は、もちろんベーコンとデカルトであり、我々は彼等の著作の中に、後に合理主義者の性格となるものの告知を認めることができるだろう。(同)

 経験主義者ベーコンと合理主義者デカルトを同列に扱うことは出来ないが、立場は違えど<技術知>を過信したという点では「同じ穴の狢(むじな)」なのである。

 ベーコンは言う。

There remains but one course for the recovery of a sound and healthy condition,—namely, that the entire work of the understanding be commenced afresh, and the mind itself be from the very outset not left to take its own course, but guided at every step; and the business be done as if by machinery. -- Francis Bacon, The New Organon: Preface

(健全な状態を回復するための道は1つしか残されていない。すなわち、理解の全作業を新たに開始し、精神自体を初めから思うに任せず、1段毎に導いていくこと、恰(あたか)も機械のように作業が行われるようにすることである)

要請されているのは、「確かなプラン」、理性の新たな「やり方」、探究の「技芸」または「方法」、(人間が生来の力の効力を増大させるために利用する機械の助けのように)自然理性の弱きを補助するべき「道具」、であり、要するに要請されているのは、定式化された探究の技術なのである。(オークショット、同)

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