オークショット『政治における合理主義』(6) 「習う」と「倣う」
技術知は、ルール、原理、指示、格言の内、つまり命題の内に残らず定式化することが可能である。技術知を本の中に書き留めることが可能である。
(中略)
他方、この種の定式化ができないのが、実践知の特徴である。それの普通の表現は、物事を行なう慣習的、伝統的やり方の中、つまり実践の中にある。そしてこのことは実践知に、不明確、その結果不確実、見解の問題、真理ではなく蓋然(がいぜん)性、という外観を与えるのである。確かにそれは、趣味または鑑識眼の内に表現される、厳密性に欠け、学ぶ者の精神の刻印を受け易いような知なのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 10-11)
オークショットは、定式化できる知(技術知)と定式化できない知(実践知)という二分法を用いて考察を深めていく。
技術知は、本から学ぶことができるのであり、通信コースで学ぶこともできる。さらにそれの多くは、暗記し、そらで繰り返し、機械的に適用することができる。三段論法のロジックは〔それ自体が〕この種の技術である。要するに技術知は、その語の最も単純な意味において、教える(teach)ことも学ぶ(learn)こともできるのである。他方実践知は、教えることも学ぶこともできず、伝え(impart)、習得する(acquire)ことができるだけである。それは、実践の内にのみ存在し、それを習得する唯一の方法は、名人への弟子入りによる方法である。弟子になればそれが習得できるのは、師匠にそれが教えられるからではなく(彼はそれができない)、それを絶え間なく実践している者との継続的接触によってのみ、それを習得することができるからである。(同)
「ならう」とは2つの意味合いがあり、それぞれ「習う」と「倣う」の漢字が当てられる。「習う」とは「教えてもらって学ぶ」ということであり、「倣う」とは「実際にやってもらって真似る」ということである。オークショット流に言えば、「習う」のが<技術知>であり、「倣う」のが<実践知>ということになろう。
芸術と科学において普通起こるのは、弟子が師匠から技術を教えられそれを学んでいる内に、はっきりとそれを伝えられたわけでもなく、しばしばそれが何かをはっきりと言えるわけでもないにもかかわらず、単なる技術知とは別の種類の知をも習得してしまっている自分に気付く、ということである。こうして、ピアニストはテクニックと共に芸術性を、チェス選手は色々な手の知識と共にスタイルとゲームへの洞察力を習得し、科学者は、(他にもあるが)技術が自分を迷わす時にそれを彼に告げてくれるような判断力と、探究の方向として実りあるものと実りないものとを彼が区別するのを可能にする鑑識眼とを、習得する(同、pp. 11-12)
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