オークショット『政治における合理主義』(16) 共産主義と米国

権威に関する限り、この分野でマルクスとエンゲルスの作品に比肩(ひけん)するものはない。この2人の著述家がいなくとも、ヨーロッパ政治はやはり合理主義に深く関わっていたであろうが、疑いもなく彼らは、我々の政治的合理主義のうち最も驚嘆すべきものの著者である。さもありなん。というのも、それは、政治権力をふるうという幻想をもつに至った他のどんな階級よりも政治的教養に乏しい階級の教化のために書かれたのだから。だから、この全ての政治的クリップの中の最大のものが、そのために書かれた者たちによって学ばれ使われる際の機械的やり方に、けちをつけることはできないのである。他のどんな技術もこれほど、それが具体的な知であるかのようにして世に登場しなかったし、誰もこれほど広範に、その技術以外失うもののない知的プロレタリアートを生み出しはしなかった。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 27)

 マルクスやエンゲルスが著(あらわ)したことは、安直な政治の「虎の巻」(crib)だったということである。世の中をマルクス・エンゲルスの教義に従って技術的に管理すれば、共産主義の「バラ色の世界」が開かれる、などということなど普通に考えれば有り得ない。そんな有り得ないことに、正義感が強いが政治経験のない素人がコロッと騙(だま)されてしまった。が、ソ連邦が崩壊したことによって、それが幻想であったことが明らかとなったのであった。

 次は、米国である。

 アメリカ合衆国の初期の歴史は、合理主義の政治の教訓に満ちた1章である。(同)

 米国は、英国の伝統を嫌って新大陸へ入植した人達の国であるから、初めから<合理主義>的傾向が強かった。

アメリカ独立の基礎を築いた人々は、頼るべきものとして、ヨーロッパの思想伝統と土着の習慣や経験との双方をもっていた。しかし実際のところは、(哲学と宗教の双方につき)ヨーロッパからアメリカへの知的贈物は、初めから圧倒的に合理主義的であったし、土着の政治習慣は、植民地化の環境の下で生み出されたものであって、自然で素朴な合理主義とでもいうべきものであった。

自分たちが実際に受け継いだ種々の行動習慣について反省する能力もあまりなく、フロンティアのコミュニティーで相互の合意により自分たちで法と秩序を設立する経験を常にしていた単純で控え目な人々にとって、彼らの諸制度は自分たちのイニシアチブが何の助けも得ずに創り出したのだと考えないのは困難である。彼らは何もなしで始め、自分たちの力ですべてを所有するに至ったように見えた。

開拓者たちの文明は、ほとんど不可避的に、自覚的に自前の人間たちの文明である。彼らは、知は白紙(tabula rasa)から始まるという信念を必要とせず、自由な精神を、デカルト的な人為的粛清の結果でさえなくジェファーソンの言ったように全能の神の贈物とみなすような、反省によるのではなく環境による合理主義者なのである。(同、pp. 27-28

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