オークショット『政治における合理主義』(8) 非合理に支えられない合理はない
デカルトは、あらゆるものを疑い斥(しりぞ)け、最後に残ったのが有名な「コギト」(cogito)であった。
《いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥(しりぞ)けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺(あざむ)くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。
また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬(ごびゅう)を犯(おか)さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。
最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。
けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私は有る」(※)というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束(たば)ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第1原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、pp. 44-45) ※「我思う、故に我あり」(Cogito ergo sum【ラテン語】)
他の全ての種類の知の学習と同じく、技術の学習は、純粋な無知を脱することにあるのではなく、すでにそこにある知を修正してゆくことにある。何事も、自足的技術に最も近いもの(1つのゲームのルール)でさえ、実際には空っぽの精神に対してそれを伝えることはできない。そして伝えられるものは、すでにそこにあるものによって育まれるのである。その点、1つのゲームのルールを知っている者は、別のゲームのルールを、素早く学ぶだろう。どんな種類の「ルール」にも全く親しんだことがない人(そんな人がもし想像できるならば)は、最も見込みのない生徒であるだろう。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 13)
例えば、「言葉」は過去から伝わる非合理的なものの最たるものであろう。だからといって、言葉を排除してしまっては、身動きが取れなくなってしまうだろう。当たり前だが、<理性>は「言葉」という非合理的なものによって支えられている。
そしてちょうど、自作の人が決して字義通りに自作ではなく、ある種の社会と、自覚されていない大いなる遺産とに依存するように、技術知が実際に自足的であることは決してなく、それが始まる際の様々な仮説を我々が忘れる場合に限って、そうであるように見せかけることができるにすぎない。(同)
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