オークショット『政治における合理主義』(21)【最終】 合理主義者の道徳
合理主義者の道徳は、道徳的理想を自覚的に追求する道徳であり、適切な形態の道徳教育とは、教戒つまり道徳諸原理の呈示と説明によるものである。これは、習慣の道徳、つまり道徳行動の伝統に無意識に従うことよりも高い道徳(自由人の道徳――人気取りのはったり言葉にはきりがない)であるとみなされるが、実際にはそれは、技術におとしめられた道徳であり、行動の教育ではなくむしろイデオロギーの訓練により獲得されるものなのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、pp. 35-36)
道徳を合理的に学ぶなどということなど出来るはずがない。求められる道徳とは優れて実践的なものであり、大いに状況に依存するものであるから定型化は出来ない。合理主義的道徳は、状況を無視し、手引書に従うことを要請する。が、例えば、「戦争は悪だ」と言ったところで戦争は無くならない。確かに、戦争は悪である。が、実際に戦争がなくならないのは、抽象的世界の善悪で現実世界は動かないからである。
他のすべてのものでと同じく、合理主義者は道徳において、相続した無知を捨て去ることから始め、この空の精神の何もない空白を、自分の個人的経験から彼が抽象し人類共通の「理性」によって是認されると彼が信じるあれこれの確実な知によって埋めることをめざす。彼はこれらの原理を議論によって擁護し、それらは(道徳的に貧弱ではあるが)整合的な信条を構成するだろう。(同、p. 36)
善悪が峻別しきれていない従来の「灰色塗(まみ)れの道徳」を捨て、空白となったところに善悪が明瞭となった偏頗(へんぱ)な「信条」(ideology)を注ぎ込む。そうやって実践的対応を欠く、頭でっかちな人間が生み出される。
合理主義者の道徳…は、自作の人間の道徳、自作の社会の道徳であり、それは、他の諸民族が「偶像崇拝」と考えたものなのである。そして、今日彼を鼓舞する(そしてもし彼が政治家なら、彼が説く)道徳イデオロギーが、実際はかつてある貴族階級の無自覚の道徳的伝統であったものの干乾びた名残だということは、重要性をもたない。(同)
合理主義者の道徳とは、実際には役に立たぬ、死した「綺麗事」に過ぎない。
合理主義者にとって唯一問題なのは、彼がついに行動習慣という不純物から理想という鉱石を分離した、ということである。そして、我々にとっての問題は、彼の成功の悲しむべき諸帰結である。道徳的諸理想は沈殿物であり、それらが意味をもつのは、宗教的、社会的伝統の中に浮遊しているかぎり、つまりある宗教的、社会的生に属するかぎりのことである。我々の時代の苦境は、合理主義者たちがあまりにも長く、我々の道徳的諸理想がその中に漂っている液体をくみ出す(そしてそれを無価値なものとして捨て去る)という彼らの企図に従事してきたので、我々のもとには、それを飲み下そうとすると息が詰まる乾いて砂のような残留物だけしか残っていない、ということである。(同)
喩えを替えれば、「清水(せいすい)に魚棲まず」ということである。社会は濁った水のごとく、清濁併せ持ったものである。が、これが汚いからといって濾過(ろか)し、不純物を取り除けば、水は綺麗になるが、そんな綺麗な水の中では、魚も息が詰まって生きられないということである。
我々は、まず、親の権威を(それのいわゆる濫用のために)破壊するのに最善をつくし、それから「良き家庭」のほとんどなくなったことを感傷的に嘆き、最後に、この破壊の仕事を完全にするような代替物を作り出すのである。そしてこの理由のために我々は、堕落して不健全な他の多くのものとともに、一群の殊勝ぶった合理主義者の政治家たちが国民に無私と社会奉仕のイデオロギーを説く光景を目にすることになる。(同、pp. 36-37)【了】
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