オークショット『政治における合理主義』(3) デカルト合理論の屁理屈
デカルトは『方法序説』の冒頭で、
《良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている》(デカルト『方法序説』(岩波文庫)落合太郎訳、p. 12)
と言う。が、良識が公平に分配されている、詰まり、全ての人に同じ良識が備わっているなどと信じる人など皆無だろう。にもかかわらず、デカルトは屁理屈を捏(こ)ねる。
《なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ大人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わぬのが一般である。このことで大人がみなまちがっているというのはほんとうらしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性(raison)とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等であることを証明する》(同)
良識あるいは理性と呼ばれる、真実と虚偽を見わけ、正しく判断する力は、生まれながらに平等であることなど絶対に有り得ない。そもそも人は生まれながらにして良識や理性など持ち合わせてなどいない。様々な経験と学習によって培われていくものである。
《そこでまたこのことが、私どもの意見の多様なのはある者が他の者よりよけいに理性を具えたところからくるのではなく、私どもが思想を色色とちがった道でみちびくところから、同じような事を考えるわけでもないところからくるのである》(同)
意見が多種多様であるのは、理性に差があるからではなく、理性の使い方に差があるからだとでも言いたいらしい。「物も言い様(よう)」としか言い様がない。
《そもそも良き精神を持つだけではまだ不完全であって、良き精神を正しく働かせることが大切である。きわめて偉大な人人には最大の不徳をも最大の徳と全く同様に行いうる力がある。また、ごくゆっくりでなければ歩かぬ人でも、つねに正しい道をたどるならば、駆けあるく人や正しい道から遠ざかる人よりも、はるかによく前進しうるのである》(同)
<つねに正しい道をたどる>人などいない。更に言えば、世の中、何が<正しい道>なのか分からないことだらけである。だから議会を開いて意見を交換し、よりよい道を模索するのである。
当然のことながら…伝統を保持することも改善することも問題にはならない。なぜなら、両者はいずれも〔その伝統に対する〕恭順の態度を含んでいるからである。〔むしろ〕それは破壊されねばならない。そして合理主義者はそれの場所を埋めるために彼の自作のもの――あるイデオロギー、伝統に含まれていた合理的真理の本体とされるものの形式化された要約――を置くのである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 5)
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