オークショット『政治における合理主義』(19) 政治における合理主義とは精神の腐敗
Rationalism in politics … involves an identifiable error, a misconception with regard to the nature of human knowledge, which amounts to a corruption of the mind. And consequently it is without the power to correct its own short-comings; it has no homeopathic quality; you cannot escape its errors by becoming more sincerely or more profoundly rationalistic. – Michael Oakeshott, Rationalism in politics
(政治における合理主義とは…精神の腐敗に等しい、特定可能な錯誤、人間の知の本質に対する誤解を伴っている。そしてそれ故に、自らの欠点を修正する力がない。ホメオパシーの性質を持たない。さらに心から深く合理主義的になっても、その誤りから逃れることは出来ないのである)
合理主義の誤りとは、合理主義に内在するものであって、いくら合理主義を追求しても、誤りから逃れることは出来ないということである。
これは、本によって生きることの罰の1つだと見うるかも知れない。それは様々な個々の誤りへと導くだけでなく、精神そのものを干乾びさせもする。教条によって生きることは、遂には知的不正直を生じさせるからである。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 32)
どうしても誤りから逃れることが出来なければ、誤りが誤りでないと自己を欺(あざむ)くしか術(すべ)はない。
そしてさらに合理主義者は、彼の誤りを正すことのできる唯一の外的インスピレーションを、まえもって拒否してしまった。彼は、自分を救ってくれる種類の知を無視するだけでなく、それをまず破壊することから始めるのである。まず電灯を消してから、見えないじゃないか、つまり「1人で闇の中を歩む人のよう」だと文句を言う。要するに、合理主義者は本質的に教育不能なのであり、できるとすれば、彼が人類の大敵だとみなすインスピレーションによってのみ、彼の合理主義から外へと教育しうるだけなのである。合理主義者が放っておかれた場合にできることは、自分が失敗した1つの合理主義的企画を、今度は成功するだろうと彼の考える別の企画と取り替えることにすぎない。(同、pp. 32-33)
本来人間は、<失敗>から何某(なにがし)かのものを学ぶ。が、<実践知>を捨て、<技術知>だけの片輪走行を行う合理主義者は、<失敗>は半ば必然的なものであるから、<失敗>し続けるしかない。
彼(=合理主義者)の言う教育とは、技術の訓練、つまり種々の本がクリップ〔虎の巻〕として使われる際にそれらから学ばれる半知の訓練、のことである。そして合理主義者の教育に対するわざとらしい関心が、社会にもっと強く口出しするための単なる口実に過ぎないのではないかという疑いを免れるのは、彼もその生徒たちと同じく惑わされていることが明らかだからに過ぎない。彼は本気で、技術知の訓練だけが唯一教育に値すると信じているが、それは、本来の意味では技術知以外に知はないのだという信念によって動かされているからである。彼は、「公共管理」の訓練が、デマゴーグの甘言や専制的支配者のつく嘘に対するもっとも確実な防御なのだ、と信じているのである。(同、pp. 33-34)
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