オークショット『政治における合理主義』(11) 知的粛清
確実な知は、空っぽの精神にのみ生じることができるのであって、研究の技術は、知的粛清から始まる(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 17)
<空っぽの精神>に<確実な知>を注ぎ込む。まるで「全体主義国家」のようである。
デカルトの第1原理は、「いかなる事柄も、私がそれを明証的にそうであると認識しない限り、決して真とは受け取らないこと、すなわち、慎重に速断と先入見とを避けること」、「全てが私のものである基礎の上に建設すること」であり、探究者は「あたかも、たった1人で暗黒の闇を歩む人のよう」だと言われるのである。(同)
「偏見」や「固定観念」は排除すべきだろう。が、だからといってすべての<先入見>を捨て去ることは出来ない。なぜなら、<先入見>という「前提」があるからこそ、我々は物事を考えることが出来るからである。すべての<先入見>を捨ててしまうことは、「考える」術(すべ)を失ってしまうことと同じである。
《「合理のための大前提は合理からはやってこない」、そして「事実なるものは(無前提に存在するのではなく)現象にかんする(包括的という意味で納得のいく)合理的説明の結果にすぎない」…「大前提」が何であるかを探究すれば、合理的には説明し切れないという意味で非合理とみなすしかないものを含む「感情」や「慣習」の大切さに気づくに違いない。そしてそのような感情・慣習の重みを知るには、レイショ(均衡)のとれたストーリー(物語)がなければならず、その物語がどこからやってくるかというとヒストリー(歴史)へのコムプリへンション(「理解」つまり「様々なことを一緒に、予め、把握すること」)からだ、ということになる。それをアンダースタンディング(理解)と言い換えても同じことで、それは「下方にある幅広い基礎、その上に立つ」ことだ。その意味で人間性の本質は(J・オルテガのいった)「物語的理性」にある》(西部邁『保守の遺言』(平凡社新書)、p. 188)
第2に、探究の技術は1組のルールに定式化され、そのルールは、理想としては、機械的普遍的に適用できる誤りえない方法を構成する、のである。第3に、知には等級がなく、確実でないものは単なる無知に過ぎない。(オークショット、同)
<機械的普遍的に適用できる誤りえない方法>を実践するということは、「感情」のような非合理なものは捨てよということだ。成程、そうすれば、間違いはなくなるのかもしれない。が、それでは人間に機械になれと言っているようなものではないか。
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