オークショット『政治における合理主義』(20) 合理主義的傾向に染まった社会

すでに大幅に合理主義的傾向に染まった社会においては、この種の訓練に対する積極的な需要があろう。(それが技術の側の半分であるかぎり)半知は経済的価値をもつことになろう。最新の趣向を思うままに操れる「訓練された」精神のための市場ができるだろう。そして、この需要が満足させられるだろうという予想も、当然にすぎない。それにふさわしい本が書かれて大量に販売され、この種の(一般的なまたは特定の活動についての)訓練を提供する様々の機関が、出現するだろう。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 34)

 今の日本における教育改革は、まさにこの状態にある。<教養>を蔑(ないがし)ろにし、<技術>習得に舵を切る。その典型が英語教育である。日本で中高6年掛けて英語を習っても話せないのはおかしいということで、英語が話せるようになるための改革が進行中である。が、良く考えて欲しい。果たして日本社会に英会話は必要なのか。

 今のみならず恐らく今後も日本において英語を話す必要はないだろう。英会話は1つの<技術>である。一方、これまでの英語教育は英語を読み書くことを中心に据えた<教養>学習であった。英語教養教育を破壊してしまったことの付けは決して小さくはない。

重大なのは、合理主義のインスビレーションが、今や我々の社会の本来の教育設備や制度を侵し、それを堕落させ始めた、ということである。これまで(単なる技術知と区別される)本物の知を伝えてきた方法と手段のいくつかはすでに消え失せ、他のものもやはり、内側からの堕落の途中にある。我々の時代の環境からの圧力はすべて、この方向に向かうものである。(同)

 <技術>を習得すれば格好は付く。が、それだけである。そこには「感受性」(sensitivity)もなければ「創造性」(creativity)もない。詰まり、「発展性」がない。それは「機械労働」と同じである。

徒弟制度、つまり技術を教えながら、教えることのできない種類の知をも伝える師匠の傍(そば)で仕事に励む弟子たちもまだ消え失せてはいないが、それは時代遅れであり、様々の技術の学校に取って替わられつつある。後者での訓練は、(技術のみの訓練でしかありえないから)実践という酸に浸けるまでは溶解しないままなのだが。ここでもやはり専門職の教育は、ますますある技術の獲得、つまり郵便を通してできること、とみなされるようになり、その結果我々は、各専門職が知恵者たちで占められる時を期待するようになるかも知れない。この者たちは、限定された技しかもたず、伝統を構成する様々なニュアンスと偉大な専門職の一部である行動基準とを学ぶ機会をもったことのない人々なのである。この種の知(は人間の偉大な成果だからこそ保存されてきたのであり、積極的に保存されないならそれは失われてしまうのだが、それ)がこれまで保存され伝達されてきた仕方の1つとして、家の伝統がある。しかし合理主義は、1つの専門職を学ぶには約2世代の実践が必要だということを、決して理解しないし、実際、彼はこのような教育を有害だと考えるので、何としてでもそれの可能性を破壊しようとするのである。(同、pp. 34-35

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