オークショット『政治における合理主義』(2) 政治は合理主義的処理は馴染まない

すべての世界の中で政治の世界は、合理主義的処理にもっとも馴染まない世界かも知れない――政治、そこには常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っているのだから。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 4)

 白黒はっきりさせるのには<合理主義>的処理は有効かもしれないが、政治的決断の多くは簡単に白黒付けられない灰色の領域の問題に関するものであるから、<合理主義>的処理は馴染まないということである。

彼(=合理主義者)は、開かれた精神、つまり先入見、過去の遣物、習慣から自由な精神を信奉する。彼は、何物にも妨げられない人間「理性」が(活動させられさえすれば)、政治活動における誤りなき指針だ、と信じている。さらに彼は、「理性」のテクニックと作用としての論議を信奉し、意見の真理性と制度の「合理的」基礎のみが、彼の関心事である。その結果、彼の政治活動の多くは、彼の社会の社会、政治、法、制度に関する遺産を彼の知性の法廷の前に立たせることにあり、その余は、「理性」が事件の様々な環境の上に何の制約も受けずに管轄権をふるう、合理的管理である。(同、pp. 4-5

 合理的でないものを非合理だとして排除してしまえば、「合理的社会」が築ける。が、それは極小さな社会でしかないだろう。例えば、合理的審判を受けて来なかった文化や伝統というものは非合理的なものの塊(かたまり)である。したがって、合理主義を貫けば、過去のほとんどを捨て去ることになりかねない。

合理主義者にとって存在しているというだけでは(そして明らかに何世代にもわたってそれが存在してきたということからは)何物も価値を有しない。親しみに価値はなく、何事も、精査を受けずに存続すべきではないのである。こうしてその性向のため、彼にとっては受容と改革よりも破壊と創造の方が理解し易く携わり易いものとなる。繕うこと、修理すること(つまり、素材についての忍耐強い知識を必要とすることを行なうこと)を彼は、時間の無駄とみなす。そして彼は常に、そこにあるよく試された便法を利用することよりも、新たな趣向を発明することの方をよしとする。彼は、それが自覚的に引き起こされた変化でないかぎり変化を認識せず、その結果容易に、慣習的なもの、伝統的なものを変化なきものとする誤りに陥る。(同、p. 5

 合理主義者の言う「合理」とは何か。勿論、合理とは理に適っているということなのであろう。では、ここで言う「理」とは何か。詰まり、「理性」とは如何なるものかということが問題となるのである。

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