オークショット『政治における合理主義』(14) パスカルのデカルト批判

パスカルはデカルトに対する明敏な批判者であり、全ての点でそうしたわけではないが、基本的な論点でデカルトに反対した。(オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)嶋津格訳、p. 20

76 必要以上に深い知識を求めようとする人々に反対して書くこと。デカルト。

77 わたしは、デカルトをゆるすことができない。かれは、その哲学全体の中で、できれば神なんかはなしですまお(→し)たいと、思ったことであろう。しかし、世界に動きを与えるためには、神に指でひとはじきしてもらわずにはいられなかった。そのあとでは、もう神なんかに用はなかったのだ。

――パスカル『パンセ』(角川書店)田辺保訳、p.72-73

 このように神をご都合主義で扱う「理神論者」デカルトがパスカルには許せない。

彼はまず、確実な知に対するデカルト的願望は、確実性についての誤った基準に基づいていること、を認めた。デカルトは、疑い得ないほどに確かなことから出発せねばならず、その結果、全ての真正な知は技術知であると信じるようになった。パスカルは、蓋然(がいぜん)性についての彼の信条によって、この結論を回避した。唯一確実な知は、その部分性のために確実なのである。ここには、蓋然的な知の方が確実な知よりも真理全体の内の多くを含むというパラドックスがある。(オークショット、同)

 <確実な知>とは、疑わしいという理由で削ぎ落された結果残った「氷山の一角」であり、全体からみれば<真理>の極一部に過ぎず、大半の<真理>が捨てられてしまっているということである。

第2にパスカルは、どんな具体的活動においてもデカルト的推論がそこに含まれる知の源泉の全部では決してない、ことを認めた。彼が言うところでは、人間精神は、成功裡に機能するために、定式化された自覚的技術に全面的に依存することはできないのであって、技術が関係する場合でさえ、精神はその技術に「暗黙に、自然に、わざとでなく」従うのである。(同)

78 無用で、不確実なデカルト。

79 〔デカルト――概略的に話をすべきなのだ。「これは、かたちと運動からでき上がっている」というふうに。そう言えば、正しいのだ。しかし、かたちや運動がどんなだかまで言い、機械の仕組みを述べるのは、それこそこっけいである。そういうことは、役にも立たず、不確実で、厄介なことだからだ。それに、なるほどそのとおりだとしても、わたしには、およそ哲学のようなものが1時間の苦労にも値するものだとは思えない。〕

――パスカル、同、p. 73

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