ル・ボン『群衆心理』(15) ~模倣~

群衆の思想、感情、感動、信念などは、細菌のそれにもひとしい激烈な感染力を具(そな)えている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 162)

 <群衆>の思想や感情に強い<感染力>があるというのは明察だと思われる。<群衆>の思想や感情が世間に広まるのは、人々がそれに共感するからではない。感染するのである。

群衆を導くのは、模範(モデル)によるのであって、議論によるのではない。いずれの時代にも、少数の個人が行動を起こすと、無意識な多数者が模倣する。(同、p. 163

 他の論者も<模倣>という行為に注目する。歴史学者アーノルド・トインビーは、模倣を意味するギリシャ語「ミメシス」という語を用いてこれを説明している。

《文明と、われわれの知っている形での未開社会…とのあいだの一つの本質的な差異は、ミメシスの向かう方向である。ミメシスは、あらゆる社会生活に見られる、社会という類全体の特徴である。その作用は、未開社会と文明社会の別を問わず、映画ファンのスターのスタイル模倣をはじめとして、あらゆる社会活動において看取(かんしゅ)することができる。しかしながら、社会の二つの種においてミメシスは異なった方向に作用する。

 われわれの知っている形での未開社会ではミメシスは年長者と、目には見えないけれども、生きている年長者の背後に立っていると感じられ、生きている年長者の威厳を強めている死せる先祖たちに向けられる。このようにミメシスが後ろ向きに過去に向けられている社会では、習慣が支配し、社会は静的状態にとどまる。これに反し、文明の過程にある社会では、ミメシスは、開拓者であるからおのずと追随者が集まってくる、創造的人物に向けられる。そのような社会では、「慣習の殻」はうち破られ、社会は変化と成長の道にそって、ダイナミックに動いてゆく》(「歴史の研究」長谷川松治訳:『世界の名著 61』(中央公論社)、p. 128)


宗教的信念が約束する幸福の理想は、来世でなければ実現されるはずはないのであるから、誰も、その実現に異議をとなえることはできない。ところが、社会主義者の幸福の理想は、現世において実現されなければならないのであるから、実現に着手されるやいなや、約束のあてにはならぬことが暴露し、そして同時に、この新たな信念は、威厳を全く失ってしまうであろう。従って、その勢力が増大するのは、単に実現のときまでのことにすぎないであろう。以上の理由によって、この新たな宗教は、それ以前に起こったあらゆる宗教と同じく、当初は破壊力をふるうにしても、その後には創造的役割をはたすことができないであろう。(ル・ボン、同、pp. 190-191

 20世紀は世界が社会主義の実験場と化した。が、1991年にソ連邦が瓦解(がかい)し、社会主義の理想が嘘っぱちであることが明らかとなった。それはル・ボンの予言の通りであった。

 かつては、といってさして遠い昔のことではないが、政府の力や数名の文筆家と少数の新聞との影響力が、世論に対する真の調節者になっていた。今日では、文筆家は、全く影響力を失ってしまい、新聞は、もはやただ世論を反映するのみである。政治家にいたっては、世論を指導するどころか、ひたすらそれに追随しようと考え、世論に対する気がねが、往々恐怖にまでなって、政治家の行動から一切の安定性を奪いとってしまうのである。

 そこで、群衆の意見が、ますます政治に対する最高の調節者となる傾向がある。(同、p. 196)

 今の日本も例外ではない。政治の玉座に座しているのは<群衆の意見>、つまり、「世論」であろうと思われる。

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