ル・ボン『群衆心理』(12) ~言葉~

言葉というものは、時代により民族によって変化する、移動しやすい一時的な意味を持つにすぎないのである。言葉によって群衆に働きかけようとするときには、その言葉が、ある時期の群衆に対して、どんな意味を持っているかを知らねばならないのであって、その言葉のかつての意味や、群衆とは異なる精神構造を持つ個人に通用する意味などは、知る必要がないのである。言葉というものは、思想と同様に、生きているものなのだ。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 134-135)

 たくさん言葉を並べても心を打たなければ人は動かない。つまり、「時処位」(TPO)に適(かな)った言葉選びが何よりも大切だということだ。つまりは、共鳴・共感を呼ぶ言葉を見付けられるか否かが人を動かす鍵となるということである。

政治上の大動乱や、信念の変化の結果、群衆が、ある言葉によって呼び起こされる心象に対して、ついに非常な反感を示すようになるときには、真の政治家たる者の第一の義務は、もちろん事物そのものには修正を加えずに、その言葉を変更することである。この事物そのものは、過去伝来の組織と密接に結びついているから、それを改めることはできない。あの明敏なトックヴィルが指摘していることであるが、統領政治や帝政の事業は、とりわけ過去の制度の大部分を新たな言葉で装うこと、従って、人の想像に不快な心象を呼び起こす言葉のかわりに、斬新さのためにそういう心象を呼び起こすことのない他の言葉を用いることであった。(同、p. 135

 歴史で言えば、「史実」は変えられないけれども、「名称」は変えられるということだ。例えば、戦前は「支那事変」と呼んでいたものが今では「日中戦争」などと呼ばれている。また、見る距離や角度が変われば「史実」の印象も変わってくる。さらに「歴史解釈」に至っては、人それぞれ千差万別である。要は、立ち位置がどこにあるかで、話ががらっと変わってしまうということだ。

政治家の最も肝要な職責の一つは、古い名称のままでは群衆に嫌悪される事物を、気うけのよい言葉、いや少なくとも偏頗(へんぱ)のない言葉で呼ぶことにある。言葉の力は、実に偉大であるから、用語を巧みに選択しさえすれば、最もいまわしいものでも受けいれさせることができるほどである。ジャコバン派が、「ダオメーにも劣らない専制政治をしき、宗教裁判所にもひとしい裁判所をもうけ、往年のメキシコに見られたような人間の大殺教を行うことができた」のも、自由、友愛という当時非常に気うけのよかった言葉を持ち出したからである…為政者の技術は、弁護士のそれと同様に、主として、言葉を駆使する術を心得るにある。(同、pp. 135-136

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