ル・ボン『群衆心理』(5) ~徳性~
徳性という語に、ある種の社会的因襲をたえず尊重するという意味と、利己的な衝動を常に抑制するという意味とを結びつけるならば、群衆は、あまりにも衝動的で、動揺しやすいから、徳性を持ち得ないのは、いうまでもない。しかし、この言葉のうちに、自己放棄、献身、無私無欲、自己犠牲、公正さへの要求などのような、ある性質の一時的な発現をも包含させるならば、かえって往々群衆は、非常に高度の徳性を発揮し得るということができる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 68)
<徳性>を有していないところもあれば有しているところもあるという<群衆>に見られる二面性の指摘は興味深い。が、ここで先に考えるべきは、そもそも<徳性>とは何かということであろう。参考になるのがプラトン『メノン』におけるソクラテスとメノンの対話である。
メノン 人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることのできるものであるか。それとも、それは教えられることはできずに、訓練によって身につけられるものであるか。それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなくて、人間に徳がそなわるのは、生まれつきの素質、ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか……。(「メノン」:『プラトン全集 9』(岩波書店)藤沢令夫訳:70)
とメノンが問うたのに対し、ソクラテスは「君がこの土地の誰かをつかまえて、いまのような問をかけるつもりになってみれば…誰でもわらって、こう答えるだろう」と言う。
ソクラテス 「客人、どうやら君には、ぼくが何か特別恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか、それともどんな仕方でそなわるものなのか、そんなことを知っていると思ってくれるとは! だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ」。
かく言うぼく自身にしても、メノン、同じことだ。この問題に関するぼくの知恵は、同市民たちの御多分にもれず貧困であって、徳についてぜんぜん何も知らないことを、自分自身に対して非難している状態なのだ。(同、71-71B)
そしてソクラテスが知っているのなら教えて欲しいと言うので、メノンは、
メノン まず、男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力をもち、かつ処理するにあたって、よく友を利して敵を害し、しかも自分は何ひとつそういう目にあわぬように気をつけるだけの能力をもつこと、これが男の徳というものです。さらに、女の徳はと言われるなら、女は所帯をよく保ち夫に服従することによって、家をよく斉(ととの)えるべきであるというふうに、なんなく説明できます。そして子供には、男の児にも女の児にも、別にまた子供の徳があるし、年配の者には別にまた年配の者の徳があって、それもおのぞみとあれば、自由人には自由人の徳、召使には召使の徳があります。こうしてあげて行けば、ほかにもまだたくさんの徳がありますから、したがって、徳が何であるかを言うにこと欠くようなことはありません。つまり、それぞれの働きと年齢に応じて、それぞれがなしとげるべき仕事のために、われわれのひとりひとりには、それぞれに相応した徳があるわけですから。(同、71E-72)
と具体的に徳を列挙するのであるが、ソクラテスは、
ソクラテス たとえその数が多く、いろいろの種類のものがあるとしても、それらの徳はすべて、ある一つの同じ相(本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。この相(本質的特性)に注目することによって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが、答え手としての正しいやり方というべきだろう。(72C)
と反駁(はんばく)する。
以上のことからも、<徳性>という言葉を用いる場合、余程注意が必要であることが分かるだろう。よって、今回の冒頭で引用したル・ボンの指摘は<群衆>は多面的であることを言いたかったのだろうと解釈して、<徳性>についての議論は一先ず措(お)いておきたい。
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