オルテガ『大衆の反逆』(5) 平均化の時代

われわれは今日、平均化の時代に生きている。財産は均等化され、相異なった社会層間の文化程度も平均化され、男女両性も接近しつつある。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 33)

 ニーチェも<平均化>という現象に言及している。

《ルネサンスになって、古典的理想の、あらゆる事物の貴族的評価法の、絢爛(けんらん)たる無気味なばかりの復興が起こった。おのが頭上に築かれた新しい、ユダヤ化されたローマの圧迫の下で、世界的ユダヤ教会堂といったさまをして(教会)と呼ばれていたそのローマの圧迫の下で、古いローマそのものが、まるで生き返った仮死者のように動きだした。がすぐさままたユダヤが、ひと呼んで宗教改革というあの根本的に賎民的な(ドイツとイギリスの)ルサンチマン運動のおかげで、ふたたび勝利を占めるにいたった。この点については、宗教改革の必然的な結果である教会の復興―また古典的ローマの古い墓場の静寂の再現ということも、勘定に入れてみなければならない。この時の事態よりもさらにいっそう決定的な深い意味において、もう一度ユダヤはフランス革命をもって古典的理想にうち勝つにいたった。これによって、ヨーロッパに存在した最後の政治的貴族主義、17・8世紀のフランスの政治的貴族主義は、民衆のルサンチマン本能の下に崩壊した。―かつて地上でこの時よりも大きな歓呼(かんこ)、騒然たる熱狂の声が聞かれたためしはなかった! ところがその最中に、奇怪きわまること、まことに意想外なことが起こった。すなわち、古代的理想そのものが、肉体をそなえて、しかも未曾有(みぞう)の偉容(いよう)をもって、人類の眼と良心の前に立ち現われたのである。―そして、多数者の特権というルサンチマンの古い虚偽の合い言葉に対して、人間の低下への・卑賎(ひせん)への・平均化への・衰頽(すいたい)と凋落(ちょうらく)への意志に対して、いま一度、少数者の特権という怖るべき魅惑的な反対の合い言葉が、かつてよりもより強烈に、より純直に、より痛烈に鳴りひびいた! 別な道への最後の指標たるかのごとくに、ナポレオンが、かつて存在したもっとも独特な、もっとも遅生まれのあの人間が、出現したのである。そしてこの人物のうちに、高貴な理想そのもの自体が、受肉の問題となってあらわれたのだ。―それがいかなる問題であるか、とくと熟考されるがよい。ナポレオン、この非人と超人との綜合たる存在が・・・》(ニーチェ「道徳の系譜」:『ニーチェ全集11』(ちくま学芸文庫)、pp. 416-417


《ニーチェほど、危険な誤解をさそう思想家もないであろう。

 たとえば、神が死んだ、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」(『ツァラトゥストラ』第4部、影)という言葉は、これによって人間ひとりひとりに巨大な責任の自覚を促すというニーチェの真意とは全く逆に、惰弱な我欲の生を合理化するもの、という誤解をさそう危険性なしとすまい。「距離の感覚(パトス)を鋭く研ぎすまして、価値の低俗化をもたらすマス・デモクラシーや、群をたのんで個性を平均化する社会主義を攻撃する、ニーチェの精神的貴族主義の主張は、反動的な権力支配の政治を合理化するために利用されることともなろう》(工藤綏夫『ニーチェ』(清水書院)、pp. 8-9

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