オルテガ『大衆の反逆』(6) 生の充実

申し分なく充溢(じゅういつ)した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づくのである。真の生の充実は、満足や達成や到着にあるのではない…自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は涸(か)れ果ててしまっている。要するに、かのすばらしき頂点というものは、実は終末に他ならない(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 42)

 1つの満足は新たな欠乏を生む。その欠乏が満たされればまた新たな足らざるものが頭をもたげる。つまり、いつまで経っても本当の満足は得られないということだ。もし本当に満足したのなら、生を終了したということである。生の充実は「結果」にあるのではない。

近代文化への信仰は悲しく淋しい信仰であった。それは、明日もその全本質において今日と同じであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けることにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである。(同、p. 43

 <進歩>とは出口のない一本道を永遠に歩き続けることである。他の道を選ぶことは許されない。過去を振り返らず、ひたすら前を向いて歩き続けるのである。が、こんな非人間的な行為はない。

《進步という觀念には2つの面がある。一つは事實(じじつ)としての面であり、もう一つは道德的な面、すなわち我々がそれを是認するかしないかの基準をなす面である。事實としての面では、それは、近世の開幕に呼應(こおう)して始まる地理的發見の初期の步みは、人間の環境を制御する新技術の發明と發見の永遠の時代に續(つづ)けられるべきものであると主張する。進步を信ずる人にいわせれば、これは、人間の考えの及ばないほど遠くはない未來まで何ら目に見えるほどの途切れなく續行されるのである。道德的原理として進步ということを支持する人たちは、この無限であたかも自然發生的な變化(へんか)過程を、よいことであり、未來の時代に地上の天國を約束する基礎であると見なしている。道德的原理として進步を考えず、ただ事實として進步を信ずることも可能である。しかし一般アメリカ人の考え方の枠の中では、兩者が互に結びついている。

 我々の大多數(だいたすう)は、この進步の世界にすっかりはまりこんでいるので、かかる進步という考えは有史以來の歷史のただ一小部分に屬(ぞく)する思想であることにも氣づかず、この思想は我々自身の宗敎的信條や慣習から全く離叛(りはん)していることを認めようともしない》(ノバート・ウィーナー『人間機械論』(みすず書房)池原止戈夫訳、p. 34



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