オルテガ『大衆の反逆』(7) 進歩主義は自己否定

自分が過去のどの生よりもいっそう生であると感ずるあまり、過去に対するいっさいの敬意と配慮を失ってしまったのである。かくして、われわれは今日にいたって初めて、いっさいの古典主義を排除してしまった時代、過去のいかなるものにも、模範や模範たりうる可能性を認めない時代、伺世紀にもわたる不断の発展の末に突如として現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃(ようらん)期であるかのように見える時代を見出すのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、同、pp. 47-48)

 <進歩>とは未来の肯定と同時に過去の否定でもある。過去よりも現在が、そして現在よりも未来が進んでいなければ<進歩>と呼べないからである。が、進歩主義は只の抽象的な1つの理論でしかなく、現実を踏まえたものでは決してない。成程、技術だけに限って言えば<進歩>と言えなくもない。が、社会も同時に<進歩>したのかと言えば、そうとは言えないだろう。まして人間は<進歩>したのかと問われ<進歩>したと答える人はほとんどいないだろう。

 それどころか現在が過去よりも進歩したのだとすれば、それは過去のお陰であって、過去はむしろ肯定されるべきものである。仮に過去を否定することで未来がより良きものとなるのなら、現在は否定されなければならない。現在が否定されることによって未来は明るいものになる。だとすれば、今を生きる我々は否定されるべき存在だということになる。

《「過去の死」について悟淡(てんたん)としているのが進歩主義者の通弊であるが、この死は実は進歩の観念にとって致命的なのである。進歩は…時間的な観念である。過去との比較によって進歩の質量がはかられるのみならず、進歩の方向すらもその比較によって指示される。進歩の観念の中心にある「倫理的改善」を確認するためにはたえず過去との対話が必要なのである。だとすれば現代は相当に奇怪な時代ではある。つまり、進歩主義者は政治的翼の左右をとわずあふれんばかりであるのに、進歩の観念そのものが底抜けになりつつあるのである》(西部邁『幻像の保守へ』(文藝春秋)、p. 44


 進歩主義は「自己否定」である。現代人は過去を否定することによって優越感に浸っているのかもしれないが、現代人は未来人によって否定され捨て去られることが確定してしまっている。このような「現在の生」に一体どのような意味があると言うのだろうか。

他のあらゆる時代に優り自分自身に劣る時代、ということができるだろう。きわめて強力でありながら、同時に自分自身の運命に確信のもてない時代。自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれわれの時代なのであろう。(オルテガ、同、p. 49

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