ル・ボン『群衆心理』(18) ~民主主義が抱える問題~
昨日に続き民主主義が抱える問題について見ておこう。少し長文ではあるが、哲学者田中美知太郎氏の説明を引く。
《市民の徳としてすぐれたよき市民に要求されるものには、体制の如何によっていろいろな差異が出て来ると言わなければならないだろう。市民の誰でもが治者にも被治者にもなるというような民主制国家においては、市民のすべてに対してかなり高度の徳が要求されるわけであり、この要求を厳格に守るとすれば、多数の市民失格者が出て来ることにもなるだろう。不徳の市民からは市民権を剥奪して、これを奴隷か居留外人の地位に落とさなければならないだろう。この点を曖昧にしておけば、治者としては不適格な市民が治者となり、さきのアリストテレスの指摘にも見られたような腐敗が起るだろう。プラトンは民主制を理想的なものとは考えなかったから、その国家体制においては一般市民には多くを求めず、治者たる者だけに限って高度の徳を要求したのである。治者としての適格者はそう多くはないから、体制は少数精鋭者の支配ということにならねばならないのである。アリストクラシー(最優秀者の支配)がつまりそれである。アリストテレスは、さきにも引用した『政治学』第3巻4章において、
ただ一つ智の徳だけは治者に固有の徳である。すなわちこれ以外の徳は被治者にも治者にも共有されていなければならないと見られるけれども、被治者には徳としての智は属さず、異なる思いなしがあればいいということである。つまり被治者は笛をつくる者のようなものであり、治者はその笛を使って曲を奏でる者のようなものだということである(1277b25-30)。
と言っている。智(фρóvησιs)の徳は治者だけに要求されるものであって被治者には必要ではないとして、治者と被治者を区別し、それはちょうど上手に笛を吹く芸というようなものは、笛をつくる者には要求されることがないよぅなものだとしている。つまり治者の智も音楽家の芸も独自のものであって、他の人に共有されることをむしろ不要とするものなのである。いま治者たるの条件がこのようにきびしいものであり、すぐれたよき市民たる者もこの治者の能力と知識をもっていなければならないのだとすると、両親がアテナイ人であるという資格だけで市民とされるすべての市民が、そのまますぐれたよき市民となりうるものではないことは明らかである。すぐれたよき市民のうちに人間としてのよさ(徳)をどこまで含めることができるか。すぐれたよき市民とすぐれたよき人間とはどの点で一致しうるか。アリストテレスが『政治学』第3巻4-5章において提起した問題はなお考察を必要とする点を多分に残していると言わなければならないだろう》(田中美知太郎『プラトン IV-政治理論-』(岩波書店)、pp. 49-50)
国民によき国民たれと望むことは出来ても、理性を失った<群衆>によき<群衆>たれと望むことは出来ない。必然的に、政治は「衆愚」化せざるを得ないのである。
多くの未知数に満たされた社会問題、神秘な論理、つまり感情の論理に支配される社会問題の前では、あらゆる人間は、同じ程度に無智になる(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 240)
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