オルテガ『大衆の反逆』(4) 権利の平等
今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 21-22)
平等主義が蔓延するにしたがって、非凡であろうと凡俗であろうと、誰もが平等に権利を主張することが出来るという考えが広まった。本来、権利と義務は表裏一体のものである。が、凡俗な人間は一方的に権利を主張するばかりで、その権利と裏腹の義務に関しては知らんぷりを決め込んでいる。結果、権利と義務の平衡を保てなくなってしまった。権利を得るだけで義務を果たさない人達が増えれば、権利が過剰となって社会が回らなくなってしまう。
大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされているのである。(同、p. 22)
かつてのようなエリート主導の社会ならば、大衆と接点がなくとも<エリート>は社会に居られた。が、大衆主導社会では、大衆に従順でなければ、<エリート>といえども社会から締め出されてしまう。
大衆は今日、かつては少数者のためにのみ保留されていたと思われる生活分野の大部分と一致する活動範囲をもっている…大衆はそれと同時に、少数者に対して不従順となり、少数者に服従もしなければ、追従(ついしょう)も尊敬もしなくなったばかりか、その逆に少数者を押しのけ、彼らにとって代わりつつある…今日の大衆が楽しみを享受するとともに、選ばれた少数者の集団によって発明され、かつてはその選ばれた者のみが利用していた利器を使用している…彼らは、以前には少数者の生得権であるがゆえに上級とみなされていた欲望や必要性を感じるにいたった(同、p. 27)
平等主義社会においては、権利は平等でなければならない。かつては社会の担い手としての義務を果たす<エリート>だけに与えられた権利が、今や義務を果たそうが果たすまいがすべての人に与えられねばならなくなった。<大衆>にとって権利の平等は空気の存在のごとく当たり前のものでしかない。
18世紀に、ある少数者たちが、すべての人間は生まれたというだけの事実によって、ある種の基本的な政治的権利、つまり、いわゆる基本的人権と市民権をもっているものであり、そのためにはなんら特殊な資質をそなえる必要がないこと、しかも、それら万人に共通した権利こそが存在しうる唯一の権利であることを発見した。かくして、特殊才能に関連した他のいっさいの権利は、特権として非難されることになった。(同、p. 28)
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