ル・ボン『群衆心理』(11) ~教育論~

 現代の有力な思想のうちで第一位を占めるのは…教育は、人間を改良し、かつ人間を平等化するにも、確実な効果をあげることができる、というのである。この主張は、単にくりかえし唱道されたという事実だけで、遂に、民主主義の最もゆるぎない教義の一つとなってしまった…しかし、多くの他の点におけると同様に、この点についても、民主主義思想は、心理学や経験の教える事実とは、大いにくいちがっている。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 113-114)

 <教育>は偏頗(へんぱ)な思想を刷り込む場と成り下がってしまった。「啓蒙(けいもう)」と称して合理主義へと傾き、平等を旨(むね)として自由に制限を掛ける。社会は合理と平等で成り立っているのではない。経験と合理、自由と平等の間で平衡をとりつつ秩序を保っているのである。が、教育は現実に非を鳴らし、自分勝手な理想を押し付けることに躍起である。現実が変わらないことに苛(いら)立ち、ますます理想の刷り込みを先鋭化させる、それが教育現場に見られる光景なのである。

教育が人間をいっそう道徳的にもいっそう幸福にもせず、人間の遺伝的な情欲や本能を改めず、しかも指導を誤れば、教育が有益となるよりもむしろ大いに有害となりかねない(同、p. 114

 地に足の着かぬ理想教育、すなわち、現実と理想の平衡感覚を喪失した偏向教育が有害無益に陥るであろうことは想像に難くない。

わが国現在の教育法が、それを受けた多数の人間を社会の敵に変じ、最悪な形態の社会主義のために多くの追随者を募っていることを示した。

 この教育法…の第一の危険は、心理学上の根本的な誤謬(ごびゅう)にもとづいていることなのである。すなわち、それは、教科書の暗唱が知力を発達させると信じこんでいることである。そこで、人々は、できるかぎり教科書をおぼえようと努める。そして、青年は、小学校から博士の学位や教授資格を得るまで、ただ教科書の内容を鵜呑みにするだけで、決して自分の判断力や創意を働かせないのである。青年にとって、教育とは、暗唱と服従とを意味する。(同、p. 115

 戦後日本の教育がこのフランスの過誤の後追いになってしまっていないか検証が必要であろう。教師側で言えば、教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのだということを再確認すべきである。生徒側も、教科書を丸覚えして試験に受かり、挙句は「クイズ王」になるのが目標というのでは到底「よき社会人」には成り得ないだろう。

この教育法は、それよりもはるかに重大な危険を呈するのである。その危険とは、この教育を受けた者に、自分の生れながらの身分に対するはげしい嫌悪の念と、そこからのがれ出ようとする強烈な欲望とを吹きこむことである。(p. 116

無用の知識の獲得は、人間を叛逆(はんぎゃく)児に変える確実な方法である。(同、pp. 117-118

 日本の戦後教育も同様の懸念がある。教育が革命予備軍を増やすための手段であってはならないのである。

民族の窮極の教育者である経験のみが、われわれの誤りを示してくれるであろう。ただ経験のみが、いまわしい教科書や憐(あわれ)むべき競争試験のかわりに、職業教育をもってする必要を立証してくれよう。(同、p. 118

 民族の経験を否定し、それを裏返しにしただけの安っぽい理想を植え付けるのが教育なのではない。過去の歴史をただ否定しては推進力が失われてしまい水没するだけである。文化伝統を活力とし前進することを学ばぬ教育など教育と呼ぶに値しない。

 たとえわが国の古典的な教育法が、落伍者や不平不満の徒(と)しかつくらないにしても、もし多くの知識のうわべだけの獲得や、多くの教科書のまる暗記などが、知能の水準を高めるとすれば、恐らく、その教育法のあらゆる不都合をまだしも忍ぶことができよう。しかし、実際、この教育法によって、こういう結果が得られようか? ああ! 遺憾ながら、否である。判断力、経験、創意、気概などが、人生における成功の条件であって、教科書のなかで、それらを学ぶのではない。教科書とは、辞書のようなものであって、参考の資料とすれば役に立つが、その冗長な断片的知識を頭につめこむのは、全く無用のことである。(同、pp. 118-119

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