ル・ボン『群衆心理』(7) ~独裁者の心得~

 思想が群衆の精神に固定されるのに長い期間を要するにしても、その思想がそこから脱するにも、やはり相当の時日が必要である。従って、群衆は、思想の点からいえば、常に学者や哲学者より数代もおくれている。今日、為政者たちはすべて、今あげたような、根本的思想に含まれる誤謬(ごびゅう)を知りながらも、その思想の勢力が今なおすこぶる強いために、彼等自身では真理とは信じなくなっている原則に従って、政治を行わざるを得ないのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 79)

 私はこのような考え方に与(くみ)しない。学者や哲学者が示す思想は決して無謬(むびゅう)ではない。それどころか、おかしな思想は幾らでもある。したがって、思想の真偽を見極め、見定めるために時間が掛かり、慎重になるのは当たり前のことである。また、為政者だけが先んじて、<群衆>が気付いていない根本的思想の誤りを理解しているかのように言うのも間違いであろう。それは余りにも軽率であるし、傲慢な考え方と言わざるを得ない。

民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現われ方なのである。それらの事実が―こういっていいならば―いわば凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺戟する術(すべ)を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである。(同、p. 86

 これはまさに<群衆>を支配するための心得(こころえ)である。民衆の想像力を動かすのは<事実>ではなく<事実の現われ方>だという指摘は悪魔的である。

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受けいれるか斥(しりぞ)けるかして、論議も反駁(はんばく)もゆるさず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変る傾向を有する(同、p. 88

適度の暗示を受けた群衆は、彼等に暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にする(同、p. 88

群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感は生れるやいなや憎悪に変る。(同、p. 88

優越者と目される人物に対する崇拝心、その人物が有すると思われる権力に対する畏敬の念、彼の命令に対する盲目的服従、彼の説く教義を論議することの不可能なこと、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒む者をすべて敵対者と見なす傾向》(同、p. 89

 群衆の確信は、盲目的服従、粗野な偏狭さ、猛烈な宣伝欲のような、宗教的感情に固有な性質をおびている。(同、p. 90

 事(こと)左様(さよう)に<群衆>は独善的なのである。「自分たちは正しい、よって相手は間違っている」と信じて疑わぬ唯我独尊。<群衆>には自分たちが間違っている可能性もあるのではないかなどと考える「思考回路」はない。そもそも懐疑的思考を有する人達はこのように群れたりはしない。

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